修善寺 写真/アフロ

(濱田 浩一郎・歴史学者、作家、評論家)

安達景盛の愛人を拉致した頼家

 源頼朝が死去し、その嫡男・源頼家が後継となったのは、1199年のことでした。頼家は当時17歳。今で言うところの高校2年生くらいの年齢でした。思春期の真っ只中というべきでしょう。その頼家が頼朝の後を継ぐ「鎌倉殿」となった矢先の同年7月16日、1人の武士が三河国(現在の愛知県東部)に向けて旅立ちます。 

 その武士の名は安達景盛。景盛の父は、頼朝の伊豆流人時代から側近く仕えていた安達盛長。景盛は、その盛長と丹後内侍の間に生まれたのでした。丹後内侍は、比企尼の長女です。

 比企尼とは、頼朝の乳母の1人であり、頼朝が伊豆に流されてからの約20年間、頼朝にずっと仕送りし、支援し続けてきた女性でありました。その縁もあり、頼朝は、比企氏を重用。尼の甥・比企能員は、奥州藤原氏攻め(1189年)において、北陸道大将軍に任じられています。また、能員の娘・若狭局は、頼家の妾となり、男子(一幡)を産むという幸運に浴していたのでした。

 さて、その比企氏側とでも言うべき安達景盛が、三河に出立したのは、三河の武士・室重広の横暴を糾問するためでした(『吾妻鏡』)。いわば、仕事として、三河に向かったのです(今風に言えば、ちょっとした単身赴任と言うべきでしょうか)。が、景盛は、この仕事に乗り気ではなく、派遣命令を何度も蹴っていたようなのです。

 その理由は何か? この春に京都から呼び寄せていた「好女」(愛人・妾)と、一時でも、離れ離れになるのが、景盛は嫌だったからなのでした。

 個人的な理由、しかも恋愛を優先して、仕事を断るとは、なかなか大胆です。それでも、再三の命令があったので、渋々、景盛は三河に向かうのです。父・盛長は三河国守護に任じられていたので、景盛の派遣はその事とも関係していたでしょう。景盛が、鎌倉を立ってから僅か4日後、衝撃的な事件が起こります。

 その日は夕方から雨で、雷鳴が轟いていました。深夜になり、雨も止み、月明かりが見え、そして、明け方になろうとする時、事件が起こるのです。新たな鎌倉殿・頼家が、側近・中野五郎を、景盛の邸に遣わし、景盛の愛人を拉致。小笠原弥太郎の家に囲ってしまったのです。「御寵愛、とても甚だしい」(『吾妻鏡』)にありますので、頼家は、御家人の愛人と肉体関係になってしまったのででした。