(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
頼朝の最期はどのようなものだったのか
1199年(建久十/正治元)の1月13日、源頼朝は鎌倉で没しました。前年の暮れ、相模川の橋の落成記念式典から帰る途中で馬から落ち、それが元で亡くなった・・・ということに、歴史上はなっています。
けれども、頼朝の最期が本当はどのようなものだったのか、詳しいことはわかっていません。なぜなら、鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』に、頼朝の死についての記述がないからです。いえ、それどころではありません。
1196年から98年(建久七〜九)までの3年間が、まるまる欠巻となっているのです。そして、1199年(建久十/正治元)からいきなり、「頼朝が没したので頼家が後を嗣いだ」と、リスタートするのです。
『吾妻鏡』の空白の3年分は、もともと存在したものが後になって失われた、というわけではなさそうです。というのも、1212年(建暦二)2月28日のところに、頼朝の落馬事故の話が不自然に出てくるからです。そこには、相模川の橋を修理する件について、「この橋は、落成記念式典からの帰りに頼朝が落馬した、例の橋だ」と書いてあります。
おかしいでしょう? というか、説明がわざとらしくないですか?
こんな不自然な説明が必要なのは、『吾妻鏡』が頼朝の死の場面を、最初から書かなかったからでしょう。しかも、死のいきさつだけではなく、3年分まるまる書かれていないのです。
では、『吾妻鏡』が欠巻となる1196年(建久七)には、何があったのでしょう。この頃、頼朝は大姫入内に向けて奔走していました。しかし、その結果として、関白の九条兼実との関係が、次第に悪化してしまったのです。それまで頼朝は兼実と親交を結び、兼実が朝廷と頼朝との間を取り次ぐ窓口のような役割を果たしていました。
しかし、兼実の娘がすでに入内していたことや、反兼実派の貴族たちが大姫入内計画を利用したことで、頼朝と兼実の関係がこじれてしまったのです。結局、兼実は政争によって失脚し、頼朝は貴重な協力者を失うことになりました。おまけに翌1197年(建久八)年には、かんじんの大姫が病死してしまいます。
頼朝は、朝廷への発言力と、鎌倉殿後継構想の両方をいっぺんに失いました。痛すぎる失点です。
そこで、頼朝と政子は、次女の乙姫(三幡姫)を入内させようと考えました。ところが、第22回(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70339)・第23回(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70515)で説明したように、もともと御家人たちの中には、頼朝の独裁体制への潜在的不満がくすぶっていたのです。頼朝の後継体制をめぐって、御家人たちの間にさまざまな思惑が生まれるのは避けられません。
おそらく、
・乙姫(三幡姫)入内推進派
・頼家擁立派
・ほかの誰か(全成?)擁立派
などが、水面下で暗闘を繰りひろげたのではないでしょうか。
落馬事故そのものは事実でしょう。脳卒中か不整脈か何かで意識を失い、落馬して人事不省に陥った可能性が考えられます。落馬の現場なり、担ぎ込まれる頼朝なりを多くの人たちが目撃していて、そこは隠しようがなかったに違いありません。
ただし、このときの鎌倉は、『吾妻鏡』には書き残せないような状態、つまり暗闘や裏切りや粛清が横行する、かなりの混乱状態だったのではないでしょうか。
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