(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
幕府の中枢部にいる「公事奉行人」
『鎌倉殿の13人』を観ているとわかるように、鎌倉幕府の中枢部には「文官」たちがいました。当時の言葉では「公事奉行人(くじぶぎょうにん)」と呼ぶのが正しいのですが、なじみのない言葉なので、ドラマではわかりやすく「文官」としています。
この人たちは、わかりやすくいえば事務方の役人です。もともとは、京都で朝廷に仕える役人でしたが、鎌倉に下ってきて、幕府に身を投じることになりました。
代表格としては、大江広元と三善康信がいますが、ドラマには中原親能(ちかよし)や二階堂行政も登場しています。実際は、他にもたくさんの文官(公事奉行人)たちが、幕府の実務を支えていました。
では、彼らはなぜ、わざわざ都を離れて鎌倉へ下ってきたのでしょう。三善康信などは、もともと頼朝の縁者だったので、平氏政権下では居心地が悪かったのかもしれません。ただ、理由はそれだけではなかったようです。
平安時代の貴族たちは、家ごとに職種がだいたい決まっていて、仕事のノウハウも、家ごとに親から子へと伝えられるのが普通でした。このシステムだと、大失敗をしたり陰謀に巻き込まれたりしないかぎりは、食い扶持は何とかなります。でも、書類を作る家に生まれた者は一生、書類を作って終わり。やりがいもないし、出世も見込めません。
ただ、役人の家に生まれた者のなかにも、頭がよくて向上心の強い人間はいます。彼らにとって、京での役人生活は窮屈に感じられたでしょう。そんな時に、頼朝が鎌倉に新しい組織を立ち上げたのです。もちろん、都から見れば当時の関東は、野蛮人の住む辺境の地です。頼朝が立ち上げた新政府だって、先行きどうなるかわかりませんから、生きて都に帰れる保証もないのです。
でも、先が見えきっている都での役人暮らしよりは、可能性も面白さも、やりがいもある。自分の才覚と努力と運次第で、新しい人生を切り開ける。そう思ったからこそ、彼らは鎌倉に行く決断をしたのでしょう。たとえていうなら、東京の大企業にいて万年係長で終わるより、地方のベンチャーに身を投じてみよう、みたいな感じです。
一方の鎌倉にも、彼ら文官の需要がありました。鎌倉に入った頼朝が新政府を立ち上げるためには、実務をこなせる事務官が必要だったからです。武士たちの所領を安堵(保証)するにしても、新しい所領を与えるにしても、証拠能力のある文書を出さなくてはなりません。所領をめぐる争いを裁くとなると、判決文が必要になります。
でも、当時の地方武士たちは、だいたい腕力自慢の脳筋タイプで、事務仕事なんかしたことがありません。多少の読み書きができたとしても、証拠能力のある公文書なんか、作れっこないのです。
そんな武士たちを率いていた頼朝にとって、京から下ってきた文官たちは、重宝な戦力でした。結果として、彼ら文官たちの中でも、実務能力が高く、知識が豊富で判断力に秀でた者たちは、頼朝の側近として幕府を支えることとなりました。
すなわち、大江広元・三善康信・中原親能・二階堂行政といったメンバーです。頼朝の起こしたアクションが一過性の叛乱で終わることなく、政権として続くようになったのは、彼ら文官たちの力によるところが大きかったのです。
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