連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

若い時、頻繁に女郎通いをしていた一茶は52歳にして初めて妻を迎えた。その夜の交合は『七番日記』に記録されている

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 小林一茶は松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人である。

名月を取てくれろとなく子哉

やせ蛙負けるな一茶これにあり

目出度(めでた)さも中位也(ちゅうくらいなり)おらが春

 こうした句がよく知られるが、江戸での奉公生活や、その後の安定しない俳諧行脚の生活など、自身の肌身に感じた生活の苦労、人生の矛盾、貧しさにあえぐ人々の日常の姿を投影した句も多い。

 庶民らしい親しみのある優しい表現で、目に映る、人・小動物・昆虫など、小さいもの、弱いものを好み、それを自分自身に置き換えて表現し、それまでの俳句とは一線を画した「一茶調」と呼ばれる独自の作風を確立。

 その分かりやすい表現の中には「生」をモチーフにした、時代を超えて共感できる人間らしさが漂っている。

 一茶は1763年に長野県上水内郡信濃町に中位クラスの農家の子として生まれた。

 3歳で母・くにを亡くし、養育は祖母・かなが担ったが、一茶は孤独な少年時代を追憶して、後に「我と来て遊べや親のない雀」を詠っている。

 母・くにの死後、8歳の年に父・弥五兵衛は後妻である・はつと再婚する。

 継母・はつは気は強いものの勤勉な女だった。

 一茶は、この継母と折り合いが悪かったため、それを見た父・弥五兵衛は、一茶とはつを引き離すために、一茶を江戸に奉公に出した。