覚悟が伴っていた赤尾や野村の「言論」
思えば赤尾の生涯も野村のそれも、最後まで決して社会を動かす動輪には伝わらないエンジンの空ぶかしのようなものだったと言えるかも知れない。
しかし、彼らは自分の顔と名前を表に出し、時には命を賭して世の中に自己の信念を訴え続けた。だからこそ、彼らの言説は一部の人の心には深く刺さった。
それに比べ今、世の中を席巻している言説は、ネット上に氾濫する、顔も名前も明かさない匿名性の下で書き込みばかりだ。ネットに書き込んだとたんに自分でも忘れてしまうような、責任のない言説も多いことだろう。なのに、この出所の分からない無数の批判の礫は、ときに対象者を死に追いやることさえある。
どう考えても「“匿名発言”の自由」と「言論の自由」はイコールではない。「言論の自由」という権利を使うにはやはり赤尾や野村のように、顔と名前を表に出し、自らの責任の下に発信すべきだとは思う。
(文中敬称略)