議会で東條英機首相をも罵倒し、演説妨害で懲罰をくらったこともある。対米戦争には反対で、右翼ではあるが反体制派として自己の主張を貫いたのだ。

昭和天皇崩御の日、皇居前広場に現れた赤尾

 戦後、自らの信念に基づいて「大日本愛国党」を創立、初代総裁となり、以後40年近く、衆議院選挙、参議院選挙、東京都知事選挙と亡くなる前年まで選挙にはすべて出馬してすべて落選、東京都民には馴染み深い政見放送の顔でもあった。

 反面、「大日本愛国党」は政治テロでも恐れられた。

 1960年の浅沼稲次郎日本社会党委員長刺殺事件も、また1975年の佐藤栄作元首相の国葬における時の総理大臣三木武夫の顔面殴打事件は「大日本愛国党」の党員による犯行だった(浅沼稲次郎刺殺事件の犯人・山口二矢は犯行直前に離党)。

 昭和天皇崩御の日、皇居前広場にもうすぐ90歳という赤尾の姿があった。取り囲むカメラマンたちを蹴散らすように彼はステッキを振り上げた。そして、その涙の滲む大きなギョロ眼を見開いて一喝した。

「ばかものーーー!」

昭和天皇崩御の日、皇居前広場で、群がるカメラマンに「おまえたちは!」とステッキを振り上げる赤尾敏(写真:橋本 昇)
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