包囲下のサラエボ(写真:橋本 昇)
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(フォトグラファー:橋本 昇)

*記事中の画像に一部刺激の強いものがあります。ご注意ください。

 ロシアによるウクライナ侵攻のニュースを聞いて、決して忘れる事のない人々の顔が頭に浮かぶ。

 30年前の事だ。

第二次大戦後の欧州で最悪の紛争

 1992年4月初め、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは突然、「敵」に包囲された。敵というのは自国のセルビア人勢力が設立したスルプスカ共和国の軍とその後ろにいるユーゴスラビア人民軍だ。

 ボスニア・ヘルツェゴビナが属していた旧ユーゴスラビア連邦は王国として建国された当初から、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人等の民族が入り混じって暮らす多民族国家だった。その為に主導権を握るセルビア人に対するクロアチア人ら他民族の反感という問題を常に抱え、特にセルビア人とクロアチア人は歴史の中で殺ったり殺られたりを繰り返していた。

 しかし、第二次世界大戦後、戦時中にパルチザンを率いて戦ったチトーによりユーゴスラビア社会主義連邦共和国として東側にも西側にも属さない独自の社会主義体制が確立されると、民族問題という分裂の危機をはらみながらも、チトーのカリスマ性のもとで民族意識を超えた国づくりが進められた。

 だが、それもチトーの死で揺らぎ始める。カリスマを失った体制は脆弱になり、経済の低迷と共に民族主義が再び頭を出してきたのだ。

 東西冷戦の終結、ソビエト連邦の崩壊と歴史が動く中、旧ユーゴスラビア連邦内でも民族、宗教の対立からスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアと独立が相次いだ。

 1992年、残ったセルビアとモンテネグロで新ユーゴスラビアが発足するが、セルビアの指導者は不満だった。彼らは大セルビア主義の信奉者だ。ボスニア・ヘルツェゴビナの中のセルビア人勢力も同様だった。

 連邦からの独立が否かでボスニア・ヘルツェゴビナは国が二分された。そして独立承認された直後、セルビア人勢力は武力で首都を包囲したのだった。そこから「第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争」とされる内戦が始まった。