獄中で社会主義から民族主義に転向

 赤尾敏は1899年、愛知県名古屋市に生まれた。子供の頃から総理大臣になる事を夢想していたというから器は相当大きい。

 その人生は波乱万丈だった。青年時代は社会主義に傾倒し、武者小路実篤たちによる“新しき村運動”に感銘を受け、孤児を集めて三宅島で牧場を経営する。が、騙されて挫折。その後、郷里に戻って社会主義運動を続け、天皇批判の演説をぶって逮捕される。

 結局このときは不起訴処分で済んだが、その後、財界の有力者に活動資金の援助を要請した一件が恐喝未遂だったとして再び逮捕されてしまう。この事件で赤尾は懲役1年6カ月の実刑判決を受けてしまうのだが、このときの獄中生活が赤尾に大きな転機をもたらした。

 獄中であっさり転向してしまうのだ。きっかけのひとつは、彼が逮捕された時の左翼の仲間の不人情な態度に怒り幻滅したことだったという。以後、赤尾は「天皇制社会主義」を唱える民族主義右翼として活動しはじめる。

昭和天皇崩御の日、皇居前広場で「陛下がお隠れあそばされた」と嘆く赤尾敏。後ろは大日本愛国党の筆保泰禎書記長(写真:橋本 昇)
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 そして第二次大戦時中に実施された唯一の衆院選挙、いわゆる「翼賛選挙」に、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」として出馬、当選を果たす。当選後、翼賛政治協会に加入はしたが、しかしとにかく反骨が体の2、3歩前を歩くような彼の性格は、議会でも数々の揉め事を起こした。