都下のワンルームを通して見える令和の人生模様
アパートを経営していると、特に一間の部屋は一人暮らしの皆さんが借りられることが少なくありません。彼らは経済力だけでなく、こういう「いざ」という時の備えがない、というか備えようがないんですよ。幸い、私の物件で不幸にあったことが誰にも気づかれず、フローリングのシミとなって人生を終えてしまう事例はありませんが、特殊清掃をされている取引先の人たちの坊さんじみた達観ぶりを見ると、言葉に尽くしがたい人間の機微に思いを馳せざるを得ません。「人間、死ぬ時はあっけないもんだ」と。
死に様と言えば一口で終わってしまうかもしれないけど、相応に頑張って、必死に生きて、生きた結果が誰からも見つけてもらえず、苦しんで、助けを求めながら、惜しまれることなく一人で死んでいくのが現代社会の死者の尊厳なのか。親元を離れて独立して核家族になれればまだいいほうです。
ワンルームとは、すなわちそういう家族から切り離されたむき出しの人間の姿だとするならば、むしろ人間性の観点からすれば背徳的な存在なんじゃないかとすら思います。別に婚姻届を出したからとか、子供がいるからとか、そういう血の繋がりがあるなしとは無関係に、人が人と絆を結び、共に暮らす家族になれる仕組みを、大家なり地域なり行政なりがもっと模索しなければならないのではないのかなあ。
町内会に出てみると、やはり社会から孤立した高齢者の皆さんの見回りをしなければならない事態は続発しています。こういう人たちは、ほぼ例外なく現役時代には職場と親子関係が最大の人間関係でした。それが、いつしか定年や親の死で関係を切り離され、誰にも頼ることなく地域に放り出されます。知られることなく、省みられることもなく、ひっそりと生きて、看取られずに死んでいく。
以前、別の物件でやはりお年寄りの入居者が体調不良で長期入院してしまい、そのまま退去だというので、切なくなって見舞いに伺ってみたところ、誰からも見舞われず、差し入れもなく、ベッドサイドにはたった一個の紙コップに使い捨てのような歯ブラシが立てられていたのを見て、ますます切なくなりまして。人の子として生まれ、母親に愛され昭和、平成と立派に日本人として生きてきて最期はこれか。
後日、杉並区から連絡があって区役所が無縁墳墓だかに埋葬するにあたり、遺留品に連絡先のあるただ一つの書面が私のところの賃借契約だったとかで、ああ、くたばったか、お祈りに行くかと再び切なくなりました。こうなると、次に何か集合住宅的なものに手を出す時は、ある種のグループホーム的な、せめて同じ場所、同じ時代に生きる人間同士が最低限の絆を育める居間ぐらいは用意したいと思うんですよ。