かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国(北送)事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮に渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏の手記。今回は、北送事業で北朝鮮に渡った同じ在日朝鮮人の親友について。
◎李 泰炅氏の連載はこちら(https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E6%9D%8E%20%E6%B3%B0%E7%82%85)をご覧ください
(李 泰炅:北送在日同胞協会会長)
現在、日本に定着している脱北者数は210人余り、韓国は3万3000人と推定されている。
私はテレビや新聞を通して、自由の地に到達した脱北者の苛立ちを目の当たりにした。飢えで死の淵をさまよって脱北した男女、中国に行くとお腹一杯食べることができるという言葉にだまされて売られた女性、密輸の罪で収容所に入れられそうになり脱走して豆満江を渡った青年、脱北した子が集めた資金で逃げた老人──。
脱北に至った経緯はさまざまだが、理由は3つに絞られる。飢えと貧困、自由への渇望だ。
今回、鉄格子がないだけで事実上は刑務所と変わらない北朝鮮で数十年間、ともに過ごしてきた親友について話そうと思う。私にとって最も親しかった同窓生だ。
親友だった申誠は、幼い頃に結婚の約束を交わした人に会うために脱北の道を選んだ。1983年のことである。失敗して政治犯収容所に拘禁された後、消息がわからなくなった。死んだという話も聞かないが、北朝鮮のことである。生きていると期待するのも難しい。魂となってさまよっているかもしれない。
彼の霊魂が、彼女を訪ねることを願ってこの文を書くことにした。それが、「北送在日同胞」の申誠に私がなすべきことだと考えたからだ。
この文が日本に住んでいる彼女の目に留まることがあるなら、彼女に会うために脱北を試みた申誠の魂がさまよっていることを併せて伝えたい。