ケイ酸塩研究所の労働者だった申誠
彼の名は「申誠」という。1952年7月15日生まれで、1962年頃に北送(帰国)した。
住所は、朝鮮民主主義人民共和国・平安南道大同郡市政労働者区で、ケイ酸塩研究所の労働者だった。左利きで、血液型はAB型。子供時代には日本映画の端役俳優(着物を着て撮った写真あり)だった。
父親の故郷は全羅道、徴兵でフィリピンへ行ったことがある。 母親は日本人で、長兄の申隆一は1970年代初めに日本への脱北を試みて、政治犯収容所へ拘禁された。弟の申誠一は北朝鮮で生まれで、1980年に反政府チラシを散布した容疑で政治犯収容所に拘禁された。
申誠が家族と住んでいた家は、他の北送在日同胞と同じく、小さな一軒家に2世帯で暮らしていた。国から与えられるのは、一世帯あたり1.5坪の2間と0.5坪の台所、小さな物置である。
私は彼の一挙手一投足を幼い頃から知っている。プライベートな悩みを真っ先に打ち明けあった間柄だ。
1982年の夕方、私は彼の家を訪ねた。子供の頃から何度も彼の家を訪れていたが、この日の記憶は生々しく残っている。扉を開けると、70歳近いお父さんとお母さんが私を歓迎した。
「テギョン来たか」
「お元気ですか」
いつものように両親と短い挨拶を交わした。そして、すぐに扉を閉めた。
色褪せとしみがある天井は、頭が届きそうなほど低かった。申誠はすぐに私の手を取って座れと言う。彼は古いベッドの上で日本から届いた航空小包やいろいろな物を整理していた。
「『結婚しないで今でも私を待っている』と彼女から連絡が来たんだ。手紙と品物は彼女から送られてきたものだよ」
郵便物を整理しながら、まるで生きている彼女と向き合っているかのように見ていた。くぼんだ目頭が濡れたまま、じっと暗い部屋の隅を見つめた。