2021年4月9日、北朝鮮は第6回労働党細胞書記大会で、「殿堂の細胞書記らは、苦難の行軍を実施することを決心した」と公表した.。
「苦難の行軍」とは、北朝鮮が苦痛や飢餓に襲われた時に住民をなだめるために使われてきたスローガンだ。今ここで苦難の行軍という言葉が発せられたのは、国連制裁とコロナ禍で北朝鮮が破綻に追い込まれつつあるということだろうか。北朝鮮では、経済破綻、政権不安定、危機、不満などが起きると、住民をなだめるだけでなく「粛清の風」が吹くのが常である。
苦難の行軍は金日成主席の死去後、1994~1999年に北朝鮮を襲った食糧難を指す。旧ソ連が崩壊し、旧共産圏からの支援が受けられなくなった直後に起きた悲劇だ。北朝鮮国民にとって、苦難の行軍は金王朝3代から強要されるスローガンで、そのたびに人々は「また死ななければならないのか」と悲嘆に暮れる。
苦難の行軍は、金日成が1938年12月から1939年3月までの100日間、日本軍の討伐を避けて、寒さと飢えに苦しみながら行軍をしたという『回想記』に由来する。
私は1960年末に、「金日成同志の革命活動の歴史」という教科書を通して苦難の行軍について学んだ。第1次苦難の行軍は、数十人のパルチザンが日本軍の討伐を避けて逃げ回った苦難の行軍である。
2回目の苦難の行軍は1956年8月だ。金日成の独裁体制に反発する勢力が起こしたクーデター(宗派事件)の際に、金日成が政権を奪われるか、維持できるかの瀬戸際となった危機的な時期を指す。それゆえに、第2次苦難の行軍は金日成中心の政権を守るための生死の分かれ目の苦難の行軍である。
ちなみに、「宗派事件」とは1956年8月、金日成による重工業優先政策と首領制に反対し、金正日を失脚させようとした延安派とソ連派を粛清した事件だ。朝鮮労働党が共産主義政党から一人独裁政権に、北朝鮮が一党独裁制の人民民主主義共和国から、首領が神として絶対権力を振るう全体主義独裁国家に変わるきっかけになった。
そして、人民を襲った苦難の行軍は北朝鮮各地で大量の餓死者が出た1994~1999年の行軍である。
当時は朝起きたらあちらこちらで餓死者が出ているような時期で、1994~2000年の間に30万~60万人、あるいは300万人の餓死者が続出したと言われている。この死者の数は北朝鮮内でも発表部署、発表者によってそれぞれ数え方が違い、記録が異なっている。
核や食糧、人口をはじめすべてが秘密の北朝鮮の統計は信じることができない。ただ、私の経験を述べてみたい。