入浴の世話をする接客婦が最初に登場したのは鎌倉時代。有馬温泉がその発祥で接待入浴はここから全国へと普及した。
室町時代中期には接客婦は全盛期を迎え、京都など湯女を抱えての客の入浴接待が盛んに行われた。
江戸時代には京都、大坂の湯屋や各地の温泉場などでは、競って美しい湯女を集め1軒に20~30人も抱えるところもあったという。
西洋人たちをも巻き込んだ男女混浴の顛末
明治の初期、神戸に居住した西洋人たちから巻き起こった抗議に「風呂屋の男女混浴」という記録がある。
神戸の北に位置する有馬温泉は、外国人たちにとっては距離的にも近く、手頃なリゾート地であった。
ところが、当時、日本では混浴が古くからの習慣であったため、女客の裸体を目の当たりにした外人は吃驚仰天(びっくりぎょうてん)。
日本の湯治客も赤毛の毛むくじゃらな巨体が全裸で、しかも前を気にすることなく巨大なイチモツを隠さずにぶら下げているのには度肝を抜かれた。
それが海の向こうの習慣だったから仕方ないのだが、馬の一物と見紛うような伸長した淫棒を目の当たりにした客らは一同に怖じ気を震い、温泉場は騒然となった。
その噂が噂を呼んだ影響からか、外人が利用する有馬温泉の人気は急降下。温泉業者も宿泊施設も頭を痛めた。
その惨状を「お上」に訴えるべく温泉地では外国人の入浴反対運動が巻き起こった。
西洋人からも「混浴は野蛮な習慣だから改めるべきだ」と県庁には抗議が多数寄せられる始末である。
そこで兵庫県知事は思いあまって、銭湯の男女混浴禁止令を発令。
騒ぎは一件落着の様相を呈したようにみえたが、実際には入り口は別々になっていても、湯船は1つという状態でもよいということだった。
となれば、当然、有馬温泉は混浴のまま。
この一見、頓珍漢ともいえる洒落の利いた混浴禁止令を発布した兵庫県知事は、伊藤博文。騒動から18年後、初代内閣総理大臣に就任し帝国憲法の制定に尽力した。
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