現在の中央区日本橋本石町と千代田区大手町を結ぶ常盤橋の近くで伊勢の与一が始めたのが最初といわれ、以来、入浴の習慣は江戸町民生活に溶け込んでいった。
江戸時代の初期の湯屋は「空風呂(からぶろ)」という蒸気風呂時代で、お湯に浸るのは腰から下で下半身のみ。
当時の江戸は埃っぽく仕事が終わると舞い上がった土埃を落とすため、江戸の庶民は毎日、湯屋に通っていた。
江戸中期になると街の至る所に湯槽(ゆぶね)のある湯屋ができたが、それでも主流は蒸気風呂だった。
ちなみに、江戸の人は湯褌(ゆふんどし)や湯巻(ゆまき)を着けて入る蒸し風呂を「風呂」、裸で湯に入るのを「湯」と厳密に区別していた。
そのため、もし「湯」のことを「風呂」と言えば「田舎者」と失笑を買った。
貝原益軒は入浴が体内の気を乱すと考え『養生訓』に10日に1度ぬるま湯に沐浴すれば良く、それ以上の入浴は身体に悪影響を与えると主張している。
当時、浴室を持つ家は稀で、現在の三越百貨店の前身である呉服屋「越後屋」でさえ内風呂を持っていなかった。
その理由は江戸には火事が多かったため、町民が家で風呂を焚くことが禁じられていたことによる。
『東京伝』によれば、銭湯の営業時間は朝8時から夜8時。享和年間における湯銭は大人10文(約250円)、子供8文(約200円)。