前回の寄稿(「想像のはるか上を行く大学『大衆化』のインパクト」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46996)では、2000年代に入って以降、日本の大学がおしなべて「大衆化」の衝撃に見舞われ、さまざまな困難や教育的対応に苦慮する事態に直面したことを述べた。
問題の核心は、従来であれば大学には進学してこなかった層の学生が、大量に大学教育の舞台に登場するようになったこと、そうした層の学生たちには、総じて大学で学ぶためのレディネス(学力という点でも、意欲・姿勢という点でも)ができていなかったという点にある。それゆえ、大学の側は、彼らへの対応に苦心し、大学生活や学業への円滑な「移行」を支援するための新たな取り組みを開始することになった。その1つが、「初年次教育」にほかならない。
初年次教育では、学生たちが大学で学ぶ意欲や構えを身につけ、文献や情報検索の方法、レポートの書き方、プレゼンテーションの技法等を学ぶための科目が設けられている。大学によっては、スクール・アイデンティティを学ぶ「自校教育」やキャリア教育的な要素が、初年次教育科目の中に組み入れられていることもある。
では、現在、大学の初年次教育の実態は、どうなっているのか。それは、期待されたとおりの教育的な効果をあげているのか――。
この点に迫ることが、今回の小論の課題となるはずであった。しかし、この論点について論じる前に、どうしても触れておかなくてはならない点がある。それは、日本の大学の初年次教育には、日本の大学制度に独自の困難さがつきまとっているということである。今回は、この点を中心に述べることにしたい。
大学「大衆化」の日本的特徴
よく考えてみれば分かるように、大学制度の大衆化が、伝統的な大学教育のあり方を難しくし、大学の側での何らかの対処を必然化するという事態は、必ずしも日本に限ったことではない。しかし、にもかかわらず、日本の大学の大衆化の進行には、諸外国とは異なるいくつかの特徴がある。