暗転~大きかった痛手

 ところが、独立を機に激化した少数民族武装勢力の反乱や政党政治の混乱に乗じてネーウィン将軍が1962年に政権を奪取すると、状況は一変する。企業の国有化や鎖国政策などを進めた社会主義政策の影響は多方面におよび、経済も急激に悪化した。

 さらに、88年の反政府デモにより社会主義が崩壊すると、デモを鎮圧した軍が全権を掌握。米国人ジャーナリストのエマ・ラーキンが記しているように、人々は思想統制や密告、投獄が日常的に行われる圧政の下で、恐怖に怯え苦しむようになった。

 これに抗議した欧米諸国は、2003年より経済制裁を開始。各国の民間資本も同国への進出を嫌気したため、国際経済から孤立を余儀なくされたミャンマー経済はさらに悪化。

 この間、1人あたり国内総生産(GDP)は200ドル以下まで落ち込み、ASEAN(東南アジア諸国連合)で最貧国に転落した。国際社会から取り残されたこの頃のミャンマーにとっては、中国だけが頼りだった。

 2011年3月に発足したテイン・セイン新政権は次々と政治改革を推進し、米国をはじめ西側諸国との関係改善を果たした上で国際社会に復帰する確かな足掛かりをつかんだ。

 就任当時「2015年まで年7.7%のGDP(国内総生産)成長率を実現する」と宣言した意気盛んなその姿は、あたかもこの地域を牽引していた頃の栄光を取り戻そうとしているかのようだ。国際社会もにわかにミャンマーブームに沸いている。

 しかし、孤立していた20数年の間に被った「痛手」は決して浅くない。表1は、名目GDPの推移である。2011年の名目GDPは、タイが3457億ドル、ベトナムが1227億ドルなのに対し、ミャンマーはわずか514億ドル。

 その経済規模は、1987年頃のタイ、2005年頃のベトナムに相当する。なお、名目GDPで見ると、ミャンマーはカンボジアの129億ドルを上回っている。