地域の「ハブ」だった60年代
1日800便以上の飛行機が離着陸し、14万人以上が利用するタイ・バンコクのスワンナプーム国際空港。世界のあちこちから人々が降り立っては、また世界に向かって飛び立っていく。ブームに沸くミャンマーを目指し、ここで乗り換える人も多いはずだ。
着陸後、滑走路をゆっくり移動する飛行機の窓から見えるガラス張りのコンコースや旅客ターミナルは、日中なら巨大な温室、夜間なら暗闇に煌々と浮かぶ不夜城を彷彿とさせる。
世界最大級の高さを誇る管制塔や敷地の広さ、そして斬新なデザインから、2006年に開港した時にはかなり話題となったが、それはともかく、この地が以前のドンムアン空港の時代から、インドシナ地域と世界をつなぐ窓口として一貫して重要な役割を果たしてきたのは間違いない。
しかし、かつてはヤンゴン(当時のラングーン)がこの地域のハブとして栄えていたことをご存知だろうか。
1852年の第2次英緬戦争後、商業的・政治的な中心地として整備が進み、85年の第3次英緬戦争により正式に英国ビルマ領の首都となったこの地には、英国人の手によってインヤー湖やカンドージ湖などの人造湖が貯水池として作られた。
また、市内あちこちに公園が整備されたほか、ラングーン総合病院やヤンゴン大学なども次々と建設され、「東の庭園都市」と呼ばれていたという。公共サービスや社会インフラも20世紀初頭までにはロンドンと肩を並べるほどに整備が進んだと言われている。
この頃、警察官として赴任し、後に作家となった英国人ジョージ・オーウェルの目に映ったのは、帝国主義下の厳然たる人種差別と重苦しい雰囲気に満ちた社会であった。
多くの植民地社会で見られたように、それも確かに真実であったろう。しかし、その一方で、国際的に見ると当時のラングーンの位置付けが非常に大きかったこともまた、事実だ。
1948年にイギリスから独立を果たした後も、この地にはKLMオランダ航空やエールフランス、パンアメリカン航空、ノースウエスト航空、英国海外航空(現在のブリティッシュ・エアウェイズの前身)など欧米各国の航空会社が乗り入れ、東南アジアの国々から域外へ出る際には、いったんここまで来てから世界に飛び立つのが一般的であった。そう、ちょうど、現在のバンコクのように。