丸亀城 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は現存十二天守のひとつ、香川県の丸亀城をたっぷりご紹介します。
最新の技術をもって築き直した山崎家治
ずいぶん久しぶりに丸亀城を訪れて、あらためて思った。これは尋常ならざる城であるぞ、と。小高い丘の上に建つ三重の天守は現存12天守の一つなのだが、その天守の建つ丘全体が3段の高石垣でガッツリ覆われているのだ。
丸亀城を現在見る姿に築いたのは、山崎家治という人である。彼は備中で3万石ばかりを領する小大名だったが、島原の乱で荒廃した天草に4万石で封じられて統治と復興にあたり、その功を認められて5万3千石をもって讃岐丸亀に封じられた。
写真1:丸亀城三ノ丸北面の高石垣
家治が入部した丸亀には、豊臣時代に生駒氏が築いた城跡があった。しかし、廃されて久しい城はそのまま使える状態ではなく、彼は最新の技術をもって築き直すことにしたのだ。築城の許可に際しては、幕府から銀300貫を拝領したという。天草ではご苦労であったから築城費用の足しにしなさい、ということだろう。かくて寛永19年(1642)から、大がかりな城普請が開始される。
写真2:南東側の丘腹に残る生駒時代の石垣。画面上方に見えるのが山崎時代の石垣
総じて大坂の陣の後、西国に転封された大名たちが築いた城は完成度が高い。石垣の築造技術も天守・櫓の建築技術も縄張りもよくこなれていて、織豊系近世城郭の一つの到達点を示すような堅城が多い。水野勝成が築いた備後福山城や、小笠原忠政の播磨明石城などが好例だが、それらの一つ上を行く堅城ぶりを見せているのが、丸亀城なのである。
しかも、福山城の水野、明石城の小笠原が10万石だったのに対し、山崎家治の知行高はその半分ほど。この城は先年、三ノ丸の南東側の石垣が豪雨で大きく崩落し、修復工事の真っ最中なのであるが、その工事の様子を見るにつけ、地方都市の財政規模を明らかに超えている。聞けば、工事費の7割くらいは国からの補助とのこと。
写真3:三ノ丸南西側の石垣は先年の豪雨で崩れ、現在は大がかりな復旧工事が行われている
石垣の一部でさえそうなのだから、ましてや全山を石垣で覆い尽くすとなったら … いくら銀300貫を拝領したとはいえ、5万3千石でこれは少々やり過ぎではなかったか、と心配になってしまう。
山崎家治は、元和の大坂城天下普請や広島城の改修などにも携わっていたから、石垣築造には実績も自信もあったのだろう。寛永19年ともなれば、各地の城普請は一段落しているから、すぐれた石工を集めやすい事情もあったのかもしれない。あるいは、乱で荒廃した天草の惨状を目の当たりにして、同様の事態が起きても耐えられるような城を築かねば、と思ったのかもしれない。
写真4:二ノ丸南面の高石垣。搦手口から登るコースだが、こちら側からだと天守や門などの建物遺構がない分「石の要塞」の感が強い
とどのつまり何が彼を突き動かしたのかはわからないが、結果として出現したのは、尋常ならざる「石の要塞」であった。その山崎家も、明暦3年(1657)には3代わずか17年で無嗣断絶となる。替わって6万石で入った京極高和が丘の上の本丸に瀟洒な天守を建て、大手門の枡形を整えて、城を最終的に完成させた。以後、代々つづいて維新に至る。
写真5:大手門と天守。高麗門の両側は京極時代に積まれた切込ハギの石垣となっている
などという歴史をたどりながら丸亀城を眺めていると、思うのだ。われわれ現代人は、大坂の陣が終わって元和偃武とやらで戦争はおしまい、天下泰平の時代が到来したものと、教科書や年表からイメージしてしまう。でも、実際は必ずしもそうではなかったらしい。
写真6:本丸西面の高石垣。5万3千石とは思えない堅城ぶり
元和・寛永年間には、戦争はまだまだ身近な現実であって、やる気満々の人がいっぱいいたのである。大名や武士たちが平和な時代における「武」のあり方、みたいなものを身につけてゆくのは、もうひとしきり紆余曲折をへた先だったようだ。
