普通の層塔型のように見えるが…
写真7:丸亀城の天守
石垣に目を奪われがちな丸亀城であるが、この城は建築遺構も大変に興味深い。
まず、城を訪れたときに目に付くのが、重要文化材に指定されている大手門だ。京極時代に典型的な枡形として整えられた大手門は、高麗門と渡櫓門の両方がセットできちんと残っている。丸亀のような中小大名の居城で、枡形の高麗門と渡櫓門が完存している例は意外に少なく、けっこう貴重である。高麗門脇の石垣も京極時代に積まれたもので、整然とした切込ハギとなっている。
写真8:内側から見た大手門。高麗門の両脇にある土塀も現存遺構で狭間も装備されている
次に、地味な建物ではあるが、山麓の曲輪に御殿表門が残っている。門そのものは豪壮な薬医門形式で、付属の番所と長屋が残っている点でポイントが高い。門も番所・長屋も、取り立てて特徴のない建物だし、美術的価値も高いわけではないから、建築学の先生たちはあまり声高に評価しない。けれども、こうした「普段使い」の建物が城内に残っている例自体が稀少なので、城好き的には必見である。
写真9:内側から見た御殿表門。画面奥に見えるのが番所と長屋だ
さて、丸亀城の現存建物で見どころといえば、何といっても天守である。層塔型3重3階の丸亀城天守は、現存12天守の中で最も小ぶり。サイズからいうなら、江戸城の富士見櫓や名古屋城の清洲櫓に負けているし、見た目の貫禄でも大坂城千貫櫓あたりに負けそうな可愛らしさだ。構造的にもごく普通の層塔型のように見えるけれど、実はこの天守、とんでもなく個性的というか、凝ったデザインの産物なのである。
天守でも櫓でも、日本の木造建築は平面が長方形になることが多いが、普通は長方形の短辺が妻側(屋根に破風のある側)になりますよね? ところが丸亀城天守の最上階を見ると、何と!長辺を妻側にあてているのだ。
写真10:真横から見た丸亀城天守。色白で小顔のアイドル顔である。鯱の間隔も異様に狭い
このため、天守を真横から眺めると最上階が圧縮されたみたいに見えて、何だか妙である(興味のある人はグーグルマップなどで直上からの画像を見てほしい、あっと驚くから)。建物の内部から構造を確認してみると、最上階屋根を支える束柱(つかばしら)の間隔が1間しかない。
写真11:小顔屋根の木組みを内側から見る。束柱の間隔が1間しかない!
なぜ、こんな変則的な構造にしたのかというと城を正面、つまり大手門側から眺めたときに、小さい天守が堂々とカッコよく見えるよえにするためだ。小さな層塔型3重天守で普通に屋根の妻側を側面に向けると、正面から眺めたときに水平線の多いデザインになって、高さ感が抑えられてしまう。
そこで、建物の長辺を正面に置きつつ、妻側を正面に向けるという変則構造にすることで、デザインに縦方向のベクトルを加えて高さ感を出そうとしているわけだ。さらに、正面側(長辺側)は1重目の壁の下半分をあえて下見板張りにして、2重目に唐破風を加え、最上階の窓も木枠にするなど、縦方向のデザインに変化をつけている。涙ぐましいまでの工夫を重ねて、高さ感を出そうとしているのだ。
写真12:大手門から見上げた天守。この堂々たる面構え、写真10と見比べてほしい。
もう一つ面白いのは、正面側(北面)の1か所にだけ石落を装備していること。この石落は小さいし、何せ1か所だけなので「装飾的」と評価されることが多い。けれどもよく見ると、三ノ丸北側から天守直下を通って二ノ丸に上がる虎口を狙っていることがわかる。ちゃんと縄張と連動しているのである。
写真13:三ノ丸から二ノ丸へ折れ曲がって上がる通路が、天守直下をすり抜けるところを石落が狙っている。よく見ると下見板張の壁には狭間も仕込まれている
写真14:虎口のところに門が建っていることを想定すると、石落の具体的な狙いが理解できる
虎口には当然、門が建っていたわけだから、三ノ丸から攻め上ってきた敵が勇敢にも門によじ登ったとしたら、門の屋根を足かがりとして天守に取り付かれてしまう。これを撃退したくて石落を付けたらしい。という具合に興味が尽きない天守なので、皆さんも現地を訪れたら、じっくり観察してみるとよい。
写真15:本丸から見た天守の南面。小さな天守だが見どころは満載だ
[参考図書]発売中の『歴史群像』2月号(通巻195)に拙稿「石垣の軍事学(後編)」が掲載されています。戦国時代後半、なせ城は石垣で築かれるようになったのか? ご興味ある方はぜひご一読下さい。









