秀吉も負けずに家康と繰り広げた「嘘の応酬合戦」

 それにしても、ドラマでの秀吉へのアドバイスが真意とは「すべて逆」ということは、「信長を信じるな」「凡事徹底」「自分を疑え」「勝敗を決するのは熱意ではない」といったところだろうか。いかにも家康らしい。

 秀吉がこの家康と対峙することを思うと、なかなか手こずりそうだが、秀吉もまた腹の底が読めないという点では負けてはいない。

 分かりやすいのが、「本能寺の変」で信長が明智光秀に討たれた後に、秀吉が出した手紙だろう。摂津茨木城主の中川清秀に事態の顛末を聞かれて、次のような手紙を書いた。

「上様ならびに殿様、いずれもなんのお障りもなく明智光秀による襲撃から切り抜けなされた」

 一読して分かる大嘘である。上様とは織田信長、殿様とはその息子で織田家の当主となっていた織田信忠のこと。二人とも死去しているにもかかわらず、「何のお障りもなく」とは、あまりに大胆な嘘だ。

 そのとき中国地方で毛利と戦をしていた秀吉は、そんな嘘っぱちな手紙を出しつつ、すぐさま毛利方との和睦をまとめた。そして異常なスピードで備中高松城から上洛。200km以上もある道のりをわずか10日で駆けつけて、明智光秀を討つ。いわゆる「中国大返し」をやってのけている。

 そんな秀吉と家康が唯一直接対決したのが、天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」である。そのときの家康の書状もまた嘘ばかりだった。

 家康は、家臣の平岩親吉と鳥居元忠に「池田紀伊守(恒興)、森長可、堀秀政、長谷川秀一ら敵の大将を始めに1万人を討ち取った」と書状に書いている。だが、実際に討ち取ったのは池田恒興・元助の親子、そして森長可らであり、堀秀政や長谷川秀一らは無事だった。

 翌日には、丹波氷上郡の土豪である赤井(蘆田)時直にも書状を出しているが、やはり嘘の戦果を書き綴っている。確信犯としか言いようがない。

 信長亡き後に本格化していく家康と秀吉の腹黒対決。今から楽しみだ。