福井県の県立高校でも、教室内で男子生徒が別の男子生徒に一方的に殴る蹴るの暴行を加える動画が拡散。2023年に撮影されたものだったが、同校が公式サイトで「お詫び」とする文書を公表したのは11日のことだった。すでにこの生徒たちは在籍していないとされるが、周囲で見ている生徒たちはこの凶行を誰も止めようとしていなかった。

 栃木と大分の動画は、いわゆる「暴露系」と呼ばれるアカウントに投稿されて、爆発的に拡散した。報酬が発生するSNSの仕組みも、拡散させる動機につながっているとの指摘もある。

 しかし、私が驚愕したのは、動画拡散の仕組みではなく、動画に映し出された少年たちそのものだった。そして、動画をめぐる顛末を追えば追うほど、大人社会が暗黙のうちに溜め込んだ“膿”が噴出したように思えてならないのだ。

周囲もまるで暴行の様子を楽しむかのように…

 いずれも、見るに耐えない動画だった。中高生がプロレスごっこで、じゃれあっている(私が同年齢の頃はよくあった)というようなものでもなければ、ヤラセ動画の演技でもなかった。真剣だった。当事者はこのような行為も許されると確信しているようだった。自分は間違っていない、というような大義や正義感、あるいは使命感すら漂わせていた。

 しかも、大分市の中学校を除いては、止めるどころか周囲にいた誰もが、この凶行を煽っていた。楽しんでさえいるように見えた。このようなおぞましい動画をアップしても許される、それどころか多くの人がいっしょに楽しめるとでも思っているのだろう。少なくとも、悪事を告発するつもりはないらしい。

 SNSではこの模様を「リンチ(私刑)」と呼ぶものさえ散見された。リンチであるのなら、現場に居合わせた人間も同罪である。

 例えば、オウム真理教事件。教団施設内では、教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚の指示で、信者が一人また一人と殺されていった。教団幹部らに囲まれて逃げ出せない状況で、一人の人間の命を奪う。目の前で首を絞められていても誰も止めない。まさにリンチだった。そこでは、黙って見ているだけでも罪になった。まして、指示役、実行役は特段の事情がない限り死刑だった。