播磨・但馬の攻略
秀吉は天正元年(1573)7月までに、苗字を木下から羽柴に改めているが、秀長も天正3年(1575)には「羽柴」に改称している。
以後、秀長は羽柴家の一門衆として秀吉を支え、各地を転戦することになる。
天正5年(1577)10月にはじまる信長の中国地方(安芸毛利氏)の攻略において、秀吉が総大将に抜擢されると、秀長は秀吉に従い、播磨国へ出陣した。
秀吉は、織田方の播磨国衆・小寺家の重臣であった小寺(のち黒田)孝高から提供された姫路城(兵庫県姫路市)を拠点に、播磨の平定を進めていく。
同時に、織田方ではあるが、家中には毛利家に通じる勢力も存在する山名家の領国である但馬国へも侵攻し、竹田城と岩洲城(いずれも兵庫県朝来市)を攻略。今後に備えるため、秀長を竹田城に城代として配置した。
しかし、翌天正6年(1578)に、秀吉が、播磨国衆で三木城(兵庫県三木市)の城主である別所長治と対立。他の国衆も呼応し、次々と毛利方へ離反してしまうと、秀長は秀吉に従い、平定にあたった。
天正8年(1580)正月、秀吉は長期に及ぶ攻囲により、三木城を攻略。4月から5月にかけて、播磨国と但馬国を平定した。
但馬国攻撃の総大将は、秀長が務めたとされる(小竹文生「但馬・播磨領有期の羽柴秀長」柴裕之編著『シリーズ・織豊大名の研究 第一四巻 豊臣秀長』所収)。