父の死と没落
秀長の父・妙雲院殿は、尾張国中々村で暮らしながら織田大和守家に仕えた在村被官クラスの人物と考えられている。
しかし、妙雲院殿は戦場での負傷、もしくは病のため引退し、百姓として中々村で過ごしていたが、秀長の妹・朝日が生まれた天文12年(1543)に亡くなった。
この時、数え年で秀吉は7歳、秀長は4歳と、残された男子はどちらも幼少であり、百姓を営むのは困難であった。
秀長らの家は貧苦を極め、百姓身分からは凋落。
秀吉は10歳の頃から家を出て、薪売りなどで生活したのちに、各地を放浪したという(以上、柴裕之『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』)。
やがて、秀吉は小栗旬が演じる織田信長に仕え、出世を重ねていく。
秀長も信長の家臣に
秀吉の誘いを受け、秀長も信長に仕えるようになったと考えられている。
その時期は不明であるが、秀吉が所領を得て、「木下藤吉郎」と称するようになった、永禄5年(1562)以降ではないかと推定されている(柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』)。
秀長が当時の史料にはじめて登場するのは、天正元年(1573)と思われる年の8月16日付で発給された、彼の書状である。秀長はこの書状で、織田勢と近江浅井家との戦闘により、村を逃散した近江国伊香郡黒田郷(滋賀県長浜市)の百姓に対して、還住(帰村)を促し、軍勢による略奪行為の取り締まりを保証した。
同年9月1日、信長は敵対していた浅井家の本拠・小谷城(長浜市)を攻略。浅井家は滅亡した。
浅井家の滅亡後、秀吉は信長から浅井家の領国のうち、伊香、浅井、坂田の「江北三郡」を、領国として宛行われた。
秀吉は居城として新たに長浜城(長浜市)を築き、管轄領域(長浜領)の統治を、自身の判断のもとで行なった。
秀長は秀吉から長浜領で所領を与えられ、秀吉の領国統治を補佐することになったとみられている(黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』)。
翌天正2年(1574)7月、信長勢が伊勢長島一向一揆を攻撃した際には、秀長は先陣を務める一人として、参陣している(『信長公記』)。