ちょうどこの時期に溝口さんと食事をする機会があったが、表情は硬く、「かなり辛そうだな」という印象だった。筆者は「急に会社を辞めてしまって大丈夫かな。休職して手当てをもらいながら身体を休めた方がいいのではないか」と心配した。

「どうせなら好きなことをやろう」

 そんな心配は杞憂に終わった。溝口さんの復活は早かった。心理学では、一度メンタルダウンを経験した人が復活し、起き上がる力を「レジリエンス」(強靭性)という。すぐに退職を決断した溝口さんにはレジリエンスが残っていた。「この機会にどうせなら好きなことをやろう」と開き直ったのだ。

アートスペース「sonatine」を開いた溝口菜津美さん

 2025年7月、パートナーで写真家の松本尚大さん(33)に場所を借り、奈良にアートスペース「sonatine」を開いた。近鉄線、JRの奈良駅から徒歩で10分前後の場所である。展示スペースは4部屋あり、計100平米と広い。古民家のような趣の店舗は歴史的町並みの「ならまち」エリアにあり、時間がゆったりと流れていた。心身の回復にも適した場所だった。

 オープン直後の記念展は溝口さん自身が集めてきたイラストや抽象画、花瓶、テキスタイル、オブジェなどを並べ、どういう思いで作品をセレクトしたのかを文章にしたためて展示した。3週間で160人が展示を訪れ、溝口さんは訪問客との対話を楽しんだ。

 11月15、16日には個人製作の出版物である「ZINE(ジン)」を集めた展示会を開く。30人の作家が参加し、ZINEをその場で販売する。歌人の短歌ワークショップ、イラストレーターの似顔絵ワークショップなども開く予定だ。

sonatineでの展示会の様子

 今の溝口さんには野望がある。

「今後は大阪や京都だけでなく、関東や海外のアーティストを呼びたいと思っています。奈良になかった価値や感性を伝え、奈良と他の地域をつなぐような場所を作れたらうれしいですね。いろんな人に『ならまち』の良さを知ってほしい」

 会社を辞め、定期収入はなくなった。「固定給はない。自分の手で稼がないといけない」と語りつつ、「でも、手触りのある実感を得られるから気持ちがいい」とも話してくれた。溝口さんは地域に根を張りながら、すでに前を見据えていた。

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