泉岳寺にある浅野長矩墓及び赤穂義士墓所門 写真/PhotoNetwork/イメージマート

 歴史上にはさまざまなリーダー(指導者)が登場してきました。その中には、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか? また、リーダーシップの秘訣とは何か? そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

「仇討ち」を決めたが…

 元禄15年(1702)7月18日、浅野大学長広(江戸城において吉良上野介に斬り付けた浅野長矩の弟。長矩に子はなく養子になっている)は幕命により、広島藩(浅野本家)に預けられることになります。知行3千石も没収され、木挽町の屋敷も取り上げられました。赤穂藩の元家老・大石内蔵助は浅野家再興を目指していたのですが、ここにその夢は絶たれます。

 それを受けて内蔵助は京都丸山で会議を開きます。いわゆる丸山会議です。参会者は内蔵助・主税親子、小野寺十内、原惣右衛門、堀部安兵衛、大高源吾ほか合わせて19名。参加者の半分がすぐにでも吉良の首を取りたいという急進派でした(その代表格として有名なのが堀部安兵衛)。会議において積極的に発言したのは急進派の連中であり、即刻、仇討ちを実行することを主張するのです。

 しかし内蔵助はじめ穏健派の者はなかなか口を開こうとはしません。当然、急進派は詰め寄ります。内蔵助は浅野家再興がならぬ時は、吉良への仇討ちを考えていました。これまでは再興の件が念頭にあったので、仇討ち実行について決断を下し、それを表明することはありませんでしたが、浅野長広が預かりの身となった今となってはその心配は無用。内蔵助はついに仇討ちを行うことを皆の前で明かしたのです。

 が、急進派のようにすぐに関東に下り、吉良を討つというような性急なことは内蔵助は言いません。その年の10月に関東に下ることにし、それまでを準備期間としたのです。焦って行動を起こして、吉良の屋敷に討ち入っても失敗する可能性が高い。そうなれば亡君の恨みを晴らすどころか、恥の上塗りになってしまう。内蔵助は慎重に事を運び、吉良を必ず討たんとしたのです。

 同志は120名ほどいましたが、丸山会議で討ち入りが決定すると脱盟する者が続出します。ここで内蔵助はいわゆる「神文(盟約の誓紙)返し」を行いました。内蔵助は貝賀弥左衛門と大高源吾を派遣。「討ち入りを取り止めることになった」と偽った上で連判状から切り取った血判を返して廻ったのです。