夏侯惇

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

無敗の猛将曹純など、優秀な親族に恵まれた曹操の挙兵以降

 曹操は挙兵当初から、親族の武将に恵まれていました。夏侯惇、曹仁、曹休、曹純、曹真など。三国志演義を読んだ方であれば、曹操の側近である夏侯惇が武神の関羽と激突する場面などを覚えている方もいらっしゃると思います。

 夏侯惇は、親族の武将の中でも別格な扱いを受けていました。前将軍から大将軍となり、最後は魏軍内でトップの地位を得たのです。夏侯惇は「不臣の礼」として、曹操と同格であり、曹操の配下(部下)ではないという扱いを受けていました。

 これら夏侯惇に与えられた特別待遇を、ほかの親族の武将で得た事例はありませんでした。曹操にとって夏侯惇という武将がどれほど特別だったかを教えてくれる逸話といえます。

 ちなみに、夏侯惇、曹仁、曹休、曹純、曹真の5人の武将のうち、曹純ただ一人だけが曹操の没以前の210年に死去しています(曹純が40歳前後のとき)。曹純は虎豹騎という精鋭部隊を率いており、強さは魏軍内の張遼をしのぐといわれたほどの、最強クラスの武将でした。

 曹純の死因は明らかにされていません(おそらく病死)。曹純は記録を見る限り無敗で武将としての戦歴を終えており、彼の死後は同じ強さの武将は得られないとして、虎豹騎の指揮を曹操が直接とるようになったほどの人物でした。

 曹純は生涯の大部分を、最前線の猛将として過ごしました。一方の夏侯惇は、195年に呂布との戦闘で左目に矢を受けて失明したのちは、曹操軍の後方支援が多い印象があります。

 それにも拘わらず、217年には対呉の防備に関連して26軍の総司令官となっており、破格の出世を魏軍内で続けていたことがわかります。