絵の道を志す
嵩は後免野田組合尋常小学校(現在の南国市立後免野田小学校)に編入した後、昭和6年(1931)に、高知県立高知城東中学校(現在の高知県立高知追手前高等学校)に入学した。
中学に入った嵩は、雑誌の漫画投稿コーナーに作品を送り、何度も入選を果たしている。
三年生の時には、新聞の漫画コンクールで一等に輝き、賞金10円を得た。当時の10円は、現在なら約5万円にあたるという(梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』)。
嵩は賞金10円のうち3円を、弟・千尋に小遣いとして渡している。
これは、嵩が千尋にあげた、最初で最後の小遣いとなった。
絵に関わる学校に進みたいと願うようになった嵩は、親代わりの伯父・寛の「田舎の中学で、絵が少し上手なくらいでは、食べていけないだろう。だが、図案(デザイン)を学べば、なんとかなるかもしれない」というアドバイスにより、美術系の学校を三校受験。
東京高等工芸学校工芸図案科(現在の千葉大学工学部)に合格し、昭和12年(1937)4月、上京して入学する。
図案科の教授に、「銀座を歩きなさい。学校で学ぶよりも感性が磨かれる」と言われたこともあり、嵩は「勉強」と称して、毎日のように銀座を歩き回り、青春を謳歌した。
寛は養子でもない嵩のために、学資や生活費等を出してくれた。そのお陰で、嵩は恵まれた学生生活を送ることができた。
そんな恩ある伯父・寛の危篤を知らせる電報が飛び込んできたのは、昭和15年(1940)3月、嵩が卒業制作のポスターに取り組んでいた時である。
ポスターを徹夜で仕上げると、嵩は御免町の寛のもとに向かう。だが、嵩が着いた時には、すでに寛は帰らぬ人となっていた。50歳だった。