父の死

 父・清は大正10年(1921)4月、引き抜かれて、朝日新聞の記者になった。同年6月には、弟の千尋が誕生している。

 天正11年(1922)10月、清が特派員として中国に派遣されると、嵩と母・登喜子、弟・千尋は同行せずに、在所村の登喜子の実家で暮らした。

 約1年半後、嵩らの運命を激変させる悲劇が訪れる。

 大正13年(1924)5月16日、清が31歳の若さで、赴任先の中国において急死したのだ。

 登喜子は30歳、嵩は5歳の時のことで、千尋はまだ3歳になっていなかった。

 清の死後、千尋は伯父の柳瀬寛(清の兄)とその妻・キミの夫妻に引き取られ、養子となる。

 寛は、高知県内の御免町(ごめんまち/現在の南国市御免町)で柳瀬医院を営む、小児科と内科の開業医で、妻・キミとの間に子はなかった。そのため清の生前から、千尋が養子に入ることが決まっていたのだ。

 千尋は跡取りとして、伯父夫妻に大切に育てられた。

 一方、嵩は母と祖母の鐵(てつ)と共に、高知市の追手筋という通りの近くで、知人の岸野という医者の離れを借りて住んだ。

 嵩は、貧しいながらも母と祖母に慈しまれて育った。

 だが、そんな日々は長くは続かなかった。母・登喜子が再婚したのだ。