ヘルメットを飛ばす姿も絵になった(写真:産経新聞社)

 6月3日、長嶋茂雄が逝去した。89年の輝かしい生涯を振り返る記事が数多くメディアに出ているが「記録よりも記憶に残る野球人、長嶋茂雄」という文言が、数多くみられる。野球記録の記事を書くことが多い筆者としては、この言葉に強い抵抗感を覚える。

 ここでは「記録の人」でもあった長嶋茂雄について、縷々検証を試みたい。

記録男だった立教大学時代

 長嶋茂雄は、千葉県立佐倉一高の出身。高校時代は3年のときに南関東大会の準々決勝まで進んだのが最高。熊谷高と対戦したこの試合で、長嶋は大宮球場のセンターに107mの本塁打を打つもチームは長嶋のソロ本塁打1本、1対4で敗退した。甲子園出場もなく無名の選手として入学したが、その素質を砂押邦信監督が高く評価して、1年春のシーズンからリーグ戦に出場した。

大学時代の戦績
1954年
 1年春:11試17打3安0本2点0盗 率.176
 1年秋:11試19打3安0本0点0盗 率.158
1955年
 2年春:11試47打8安0本1点0盗 率.170(25位)
 2年秋:11試35打12安1本12点0盗 率.343(3位)
1956年
 3年春:14試48打22安2本8点4盗 率.458(1位)
 3年秋:15試59打17安3本8点7盗 率.288(7位)
1957年
 4年春:12試40打9安1本4点6盗 率.225(22位)
 4年秋:11試39打13安1本4点5盗 率.333(1位)

 1年の春から起用された長嶋は2年生になると正三塁手となり、「砂押監督排斥事件」で砂押監督が退任した2年秋に打率3割、初本塁打も打つ。以後、リーグ屈指の強打者となり、首位打者2回。

 この時点で、東京六大学の通算ホームラン記録は、戦前の宮武三郎(慶大)、呉明捷(早大)の7本だった。4年春を終えて7本で並んだ長嶋だが、秋はなかなか本塁打が出なかった。しかし11月3日、最終の慶大戦の5回に新記録となる8号を打った。