大卒選手としても類まれな活躍
プロ野球(職業野球)が創設されたのは戦前の1936年だったが、入団する選手の大部分は中等学校(今の高校に相当)卒、あるいは大学中退者だった。
のちに南海の大監督になる鶴岡一人は1939年、法政大学を卒業して南海軍に入ったが、法政大学OB会は「大学学士が野球を生業にするとは何事だ」と鶴岡を非難、同窓会から破門された。
戦後、こうした認識は薄まったが、大学卒選手は入団時に22~23歳になっていたから10年程度、30代前半で引退するのが一般的だった。
1954年、早稲田大学から大型遊撃手として巨人に入団した広岡達朗は新人王を取る活躍だったが13年で引退。これは長い方で、慶應義塾大から1948年に大阪タイガースに入団した別当薫は10年、同じく慶應義塾大から1956年に高橋ユニオンズに入団した佐々木信也は4年で引退した。
そんな中で長嶋は38歳になる17年目のシーズンまで第一線で活躍した。
プロ野球通算2000本安打は、1956年5月31日の中日戦で、巨人の川上哲治が達成した。当時の新聞は「大記録」として大々的に報じたが、以後の達成者はすべて高校(中等学校)出身だった。
川上哲治(巨人):1956年5月31日中日戦(熊本工業学校)
山内一弘(阪神):1967年10月14日サンケイ戦(起工業高)
榎本喜八(毎日):1968年7月21日近鉄戦(早稲田実業高)
野村克也(南海):1970年10月18日西鉄戦(峰山高)
大学出の選手はプロデビューが4年遅くなる。キャリアが短いから、2000本安打は不可能ではないかと言われた。
そんな中で長嶋茂雄は1971年5月25日のヤクルト戦で大卒選手として初めて2000本安打を記録。35歳3カ月での達成だった。
しかしながら、この後も2000本の大台を超えるのは高卒選手ばかりだった。1984年5月5日、法政大出の山本浩二が巨人戦で大卒2人目の2000本安打を記録するまで、13年もかかったのだ。
現在では、大学出身選手の2000本安打は15人いる(大学中退者を除く)。
金本知憲:2539安打/東北福祉大
長嶋茂雄:2471安打/立教大
山本浩二:2339安打/法政大
稲葉篤紀:2167安打/法政大
宮本慎也:2133安打/同志社大
阿部慎之助:2132安打/中央大
鳥谷敬:2099安打/早稲田大
古田敦也:2097安打/立命館大
谷沢健一:2062安打/早稲田大
有藤通世:2057安打/近畿大
和田一浩:2050安打/東北福祉大
大島洋平:2048安打/駒沢大
小久保裕紀:2041安打/青山学院大
新井宏昌:2038安打/法政大
野村謙二郎:2020安打/駒沢大
長嶋は金本知憲に抜かれて2位である。最終年まで規定打席に到達して108安打を打った長嶋である。もう1年頑張って大卒初の2500安打をクリアしてほしかったようにも思う。

長嶋以外の選手はすべてドラフト制度施行後に入団した。長嶋が2000本を達成して以降、大卒でも2000本は夢ではないということが明らかになって目標にする選手が増えたのではないかと思う。
長嶋茂雄の活躍が、大卒選手の可能性を広げたという点も強調しておきたい。