「短歌滅亡私論」のインパクト
矛盾、それは「歌道」「歌学」で教えられる、古今・新古今などの古典の歌語、雅語、要するに古典語と、明治末期の近代日本人の言語との絶望的な落差、ギャップです。
「吾輩は猫である。名前はまだない」(夏目漱石 1905年)というセンテンスの中で、2025年の日本語であまり出くわさないのは「吾輩」という表現くらいのもので、ほかはそのまま現在でも通用するでしょう。
これに対して「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」(紀貫之935年)は、どうみても21世紀の日本語ではない。
同じ紀貫之が選者の一人として選ばれた古今和歌集(905年)は、現代の私たちが直面する社会問題も、科学も技も哲学の問題もしっかり救い上げるボキャブラリー、語彙を持っていません。例えば、
「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(古今集第三四三)
といった日本語表現で、どうやって核の脅威やガンの告知、地球気候変動や脳死の問題を歌えるか?
「不可能だろう」というのが、国文出身ながら「ハイネノ詩」でデビューした尾上の実感でした。
1907年、早稲田大学教授に就任した尾上は、和歌や新体詩に熱中する英文科の学生たちと知り合います。
そして彼らに、必ずしも旧来の歌語に捉われなくてよい、七・五調の「今様体」に縛られなくてもいいんだ、と鼓舞、啓発します。
1910(明治43)年には「短歌滅亡私論」を発表、時代の新しい感興を歌えない「短歌」はほどなく滅亡すると信じる、としながら、その古くからある短歌に、自分はいまもって捉われていることを率直に告白しています。
尾上の論点は3つありました。
第1は「57577」の31文字では、現代人の思想を表明するのに「短すぎること」。
第2は、「575」などの文字数の制約は、現代語の自由な表現からみて「堅苦しすぎること」。
「私の議論は、また短歌の形式が今日の吾人を十分に写し出す力があるものであるかを疑ふ」
第3は、歌語のカバーする範囲は狭く、現代社会の文物を到底掬い取りきれないので「狭すぎること」。
「短歌は連作の傾向をとりつつあり、連作としなければならないのなら一首一首分解した形体であらわす必要はない」
自由な現代語で率直に自己表現をするためには、短歌の存在を否定しなければならない、というのが尾上の結論であり、かつ同時に、その不自由な短歌という形式に自分が住処を見出していることも率直に表明しています。
「・・・少なくとも私は、短歌の存続を否認しようと思ふ」
「しかし今日の私は、まだ古い私に捕はれてゐる」
(明治43年10月「創作」1ノ8)
この「短歌滅亡私論」は明治末期の歌界のみならず、広く文学界、社会に大きなインパクトとなり、その後の詩歌の変遷に決定的な影響を与えています。
ただ、それは、若い世代の力ある新しい作家たちの作品によって、現代に伝えられている。
尾上自身の作品は、そこまでのポピュラリティは獲得しておらず、必ずしもいま、彼の名を知る人も少ないでしょう。
そこで、尾上が教え、影響を与えた学生たちの詠んだ代表句を紹介してみましょう。
「白鳥は 悲しからずや 空の青 海の青とも 染まずただよふ」若山繁(早大英文科)
「からたちの花が咲いたよ 白い白い 花が咲いたよ」北原隆吉(早大英文科)
若山繁こと、歌人・若山牧水(1885-1928)は人も知る尾上柴舟初期の生徒ですが、よほど広く知られ、愛されているのは、作品の鮮やかな切り口によるものでしょう。
先ほども記した通り、実は早稲田では英文科卒で、歌論だ歌学だ歌道だという古めかしいことに捉われず、20世紀の新しい詩情、自然との好感を自歌い上げました。
もちろん牧水も古今や新古今、あるいは芭蕉から子規に至る俳句などにも細やかな視線を送っています。しかしそれに染まりすぎることなく、自由な詩想を紡いだ。
もし牧水が、歌学ゴリゴリの佐々木信綱門下であれば、こんなことはできなかったでしょう。
若山牧水に対して北原隆吉こと北原白秋(1885-1942)は、少年時代から与謝野鐵幹「明星」に心酔して早稲田進学後に合流、石川啄木(1886-1912)らと交わります。
そもそも詩から出発した石川は
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
(啄木「一握の砂」から、1912年)
と、歌学とも歌道とも無関係な、マルクス主義にも近い20世紀の心情を歌いますので、佐々木信綱などは外道扱いしかしません。
これと対照的に、北原隆吉は出身が短歌・俳句なので、実はかなり「575」(今様調)の影響が色濃く残っています
待ちぼうけ、待ちぼうけ
ある日せっせと、野良稼ぎ
そこに兔が とんで出て
ころりころげた 木の根っこ
(白秋「待ちぼうけ」から)
白秋というと与謝野鐵幹「明星」と多くの文学史は教えますが、私は、早稲田での学生たちの中で、白秋が最も尾上の姿勢をそのまま受け継いでいるように思います。
それは「翻訳」訳詩の詩業があるからです。
若山牧水も北原白秋も、実は早大英文科出身ですが、牧水にはよく知られた「訳詩」の仕事はありません。
尾上柴舟「ハイネノ詩」が昭和初期まで40年近く、広く読まれ続けたのに対して、至近の弟子、牧水は一貫して「和歌」の人です。
これに対して、白秋には「まざあ・ぐうす」(1930)など代表作の中に訳業が入っている。
風よ、ふけ、ふけ、
ひきうすまわせ、
粉屋粉ひき、
パンやさんがこねて、
朝はほやほやふかしたて
(白秋「まざあ・ぐうす」から)
森鴎外「即興詩人」尾上柴舟「ハイネノ詩」など、同時代内外の文学に時差ない視線を送ったという意味で、白秋は20世紀初頭の文学人で、シュールレアリスムとの近縁性が指摘されています。
大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも
白秋「雲母集」から(1915年)
は、実はアンドレ・ブルトンの「シュールレアリズム宣言」(1924)などより、はるかに先んじています。
直接の翻訳はなくとも、牧水や白秋の詩業に、海外の作品動向が深く関連するのは、鴎外や漱石の例とも重なる、今日とは大いに異なる様相と言えるでしょう。
シュールレアリズムは1930年代、瀧口修造らによって時差なく日本に紹介されます。
跡絶えない翅の
幼い蛾は夜の巨大な瓶の重さに堪えている
(中略)
すべて
ことりともしない丘の上の球形の鏡
瀧口修造「遮られない休息」(「妖精の距離」1937)
終戦後、浮浪児同前の生活で作曲家以前の状況だった武満徹さん(1930-96)は、この詩に触発されてピアノ曲「遮られない休息」(1950/59)を書き、これらの経緯を記した秋山邦晴さん(1929-96)の評論も含め、私自身の出発点となり、秋山さんが導き入れてくださって私はジョン・ケージやマース・カニングハム舞踊団との仕事を始めることができました。
つまり、絵に描かれた文学史、芸術史ではなく、直接恩恵を被った先人の歩みとして、本稿も準備しています。