なぜ「AI」を教育に常用するか?

 ここで最初の話題に戻りましょう。なぜ私が、創意を持った「教育」ないし「体験」に生成AIを活用するように思うのか?

 それは、システムが「出会い」と「驚き」、偶然の「チャンス」をもたらし、開かれた世界に子供たちの眺望を開く「窓」、自分を元気づける殻を内側から破る装置として機能するからにほかなりません。

 若山繁君こと、牧水は、英文科の学生で、そんなに網羅的に万葉集や古今集を学んできたわけではない。

 そんな若山君に「自由に歌を書きたいなら、まず古典をよく勉強してから」とは、尾上は指導しなかったと思います。

 そうではない、まず「やってごらん」です。

 で、そこから分かることがある。それ以降、読みなおせば、万葉だって古今集だって別の横顔を見せてくれる。

 今日の子供たちは、百人一首だって知らないし、文学なんか全く親しんだことがないのが普通です。

 そういうα世代たちに「AI」を通じて、古典の引用、そのパッチワークに触れる「チャンス」を与える。これが第一の動機です。

 そこで面白いと思った詩句を切ったり貼ったりカットアップ(トリスタン・ツァラ~ウィリアム・バロウズ)してみる。

 そういう操作、オペランド条件づけで、面白さを知る。

 そしたら次に、それを「外国語訳」してみるんですね。鴎外や尾上が採ったアプローチを逆に行くわけです。

 例えば「シェイクスピアの英語で、3通り訳し分けてみて」「ヘミングウエイの文体で、5通り書き換えてみて」などとAIにプロンプトを出すと、機械学習システムは元来は自動翻訳機ですから、シェイクスピアやヘミングウェイ、ゲーテでもシラーでもいいんですが、それら学習した文献のボキャブラリーや文体を使って、何か出力してくる。

 保証しますが、見る人の目さえ鋭ければ、この種の遊びは、かなり面白い発見を、結構な頻度でもたらしてくれます。

「面白い」のです。

 それに、プログラムで出力した「俳画」も作って、全体をレイアウトしてごらんという、かなり破天荒と思うかもしれませんが、「詩・画・書」三つ揃って文人の出発点という、尾上が教えた基本を踏襲しています。

 尾上自身は書家として知られ、日本芸術院会員は書で、学士院会員は国文学で、文武両道ではないですが、複数の道各々をきちんと極めつつ、そのシナジーを文化と認識していました。

 実は個人的にはスケッチなども残しているようですが(戦災で燃えたものもあるようです)、それを人様の目に触れさせることはなかった。

 あくまでこれは自分のため、としてスケッチなども書き、人の目に触れる絵は、パートナーの日本画家、川合玉堂さんがもっぱら描かれた。

 でも、いまの子供たちは、AIを遊び相手に「詩・画・書」すべてをクロスオーバーで渉猟できる。

 これを提供してあげようというのが、私の考えたカリキュラムです。