
ここ数年、連休あけのこの時期に「ラボ展」の告知をしています。
今年も5月20日火曜から27日火曜まで、1週間だけですが、東京都美術館で、正式名称「第72回日府展 国際先端表現部門」を開催します。
「ラボ展」と呼んでいるのは、私の研究室で学位を取る人は、一般の芸術大学同様、修士でも博士でも必ずここで学位展、あるいは音楽専攻なら学位リサイタルを設定しているからです。
多くの関係者の尽力で成立していることを記しておきます。
今年のテーマは「AI以降の表現戦略」。
特段こ難しい芸術云々でなく、ごく普通の中学生がAIで開いた「句会」で推敲した「俳句」を、AIに「シェイクスピアの英語で」とか「ヘミングウェイの文体で」とか指定して、やはり推敲した「日英俳句」に、AIに方程式で指定して出力させた「俳画」を添えた「日英多言語俳句・俳画」約200点が、壁中にランダムに貼り出されています。
これは、着物や帯の柄でよく見かける「歌留多尽くし(かるたづくし)」を踏襲したものです。

東京都美術館の一室をバーチャルな「帯」で包んでしまおう、という考えですが、そのレイアウトも乱数を使って発生させ、展示そのものもAI駆動で作っている。
かつて生前にも、また没後は遺作初演で私とコラボレートした20世紀米国のアーティスト、ジョン・ケージ(1912-92)が、サイコロや筮竹(ぜいちく=易占いに使う竹の棒)を使った「偶然性」を導入する装置として、生成AIの、特にバグに相当するような部分を「遊ぶ」「面白み」を強調することを考えました。
中学生200人のカリキュラムを準備し、東海大学付属菅生高等学校中等部、全200数十人の生徒を初回は私自身で授業担当もしてローティーンに「いろんな試行錯誤を自由にしていいんだよ」と鼓舞してみました。
どんなものが出てきたか、ご興味の方はこちらから事前登録していただければ入場いただけますので、ぜひお運びください。
「歌留多尽くし」のプログラミングは、私と一緒に授業を考え、多くのコマで子供たちを教えてくれた数学・情報教諭で、DynaxT社に社籍のある平岩優里さんが実装してくれたものです。
今回は、この展示の元になるアイデアを与えてくれた「尾上柴舟」(1876-1957)という人物と、彼の生徒たち(生徒たちの方がはるかに有名です)について、述べてみたいと思います。
国文出身なのに処女作が「ハイネノ詩」?
尾上柴舟(さいしゅう)、本名八郎は1876(明治9)年、現在の岡山県、津山で生まれました。
津山藩は松平親藩だったので明治以降、官界で出世する人は少ないのですが、旧幕時代から藩校が英学を扱っていたからでしょう。洋学に進む人が多かった。
箕作秋坪、秋坪の息子・菊池大麓、秋坪の甥・箕作麟祥、津田真道など、「明六社」に加わり、近代的な大学創設に参加したメンバーが出ています。
津山の北郷家の三男に生まれた八郎は、少時から英明だったため、尾上家の跡取として養子に取られ、中学から東京に出て一高、帝大国文科と進みます。
彼が最も影響を受けたのは、一高時代に国文学を習った落合直文(1861-1903)と、彼が一高で主催した「文学会」(1892-)と思われます。
落合直文は尾上より15歳年長、いまだ31歳の若い落合に、弱冠16歳の八郎は決定的に感化されたようです。
翌1893年、やはり落合が主催した「浅香社」に与謝野寛(鐵幹1873-1935)、金子薫園らと共に参加。
与謝野が20歳、尾上と金子は弱冠17歳。尾上は「歌道」の原体験を刻印されたはずなのです。
実際、国文ではそれなりに優秀で、明治33年、大学学部生でありながら1900年の歌会始に列して、明治天皇の前で歌を詠んだりもしているのですが・・・。
1901(明治34)年、国文科を卒業した年、25歳の尾上が最初に公刊したのは、なんと「ハイネノ詩」なのです。

訳文は、図にあるように七・五調の「今様体」で書かれています。
おのが涙の したたらば
麗(うるわ)しき花 咲きぬべし
おのがなげきの 響きなば
鶯の音(ね)と なりぬべし
(ハインリッヒ・ハイネ+尾上柴舟 「おのが涙」『ハイネノ詩』より、1901年)
これはつまり平安時代末期、後白河法皇の「梁塵秘抄」と同じ文体で、19世紀自然主義の「ハイネノ詩」が訳出されているわけです。ちなみに、ご参考まで、
遊びをせんとや 生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ 動がるれ
(梁塵秘抄 1180年頃)
ドイツ・ロマン派抒情詩人の評伝と翻訳(今回展には1901年の初版本を展示します)が、「国文学」出身であるはずの、尾上の処女作なのでありました。
時は日清戦争に勝利した後、金本位制を確立(1897)、京都に2番目の帝国大学も開学(1897)し、八幡製鉄所が創業(1898)し始めた直後、新世紀としての20世紀の旅立ちを、尾上は「国際先端表現」の観点から考えたのです。
少し年長の保守本流・東大国文科初代教授・佐々木弘綱の長男、佐々木信綱(1871-1963)や、これと袂を分かった改革派、与謝野鉄幹の「明星」は、主張や作風は大いに異なっても、揃ってあくまで「国文」「和歌」を追求しました。
これに対して、尾上はスタートラインから国際的な視野に立ち、グローバルな立ち位置の中での日本を考えたのです。
一つの背景として、津山藩出身の親族には外交官や海外留学者、貿易に従事した者が多かったことも関係していると思います。
この3年後、日露戦争が勃発します。
夏目漱石が処女作の小説「吾輩は猫である」を発表するのは日露戦争明けの1905年のこと。
時まさに、近代日本は母国語によるグローバル同時代文学を、模索し始めたタイミングでありました。
日本は安政の不平等条約を最終的に克服して関税自主権を回復(1911)し、いよいよ先進列強の工業国家、経済大国の一員たらんとしていたタイミングでした。
古今伝授の歌人でもある尾上は、グローバリズムに目覚め、同時に強烈な矛盾を認識しました。