薩摩藩士・近藤長次郎(上杉宗次郎)の誕生

 薩摩藩は元治元年1月から安行丸(前年9月に購入)の運行を開始し、同年中に平運丸・胡蝶丸・翔鳳丸・乾行丸・豊瑞丸を長崎で購入した。しかし、軍艦は手に入れたものの、薩英戦争や長崎丸事件などによって、乗組員の不足解消にはほど遠い状態にあった。そこで、 白羽の矢は近藤を含む勝門下である土佐藩脱藩浪士グループに立ったのだ。

 薩摩藩大坂屋敷に潜伏したメンバーは、近藤を始め、高松太郎・菅野覚兵衛・新宮馬之助・白峯駿馬・黒木小太郎・陸奥宗光であった。加えて、幕府士官と争って出奔していた、幕船翔鶴丸の船舶器械取扱者・火炊水夫(機関員・ボイラー員等)らと推測される。

 慶応元年(1865)2月1日、近藤らは安行丸で鹿児島に向かい、18日から大乗院坊中威光院が居所となった。龍馬は江戸に行っていたため、同年5月1日、小松帯刀・西郷隆盛とともに胡蝶丸で鹿児島にむかった。龍馬の居所は不明だが、近藤らと同居の可能性も十分にあり得る。なお、この段階で龍馬と近藤は薩摩藩士となり、その他は小松帯刀のお抱え(家臣)として陪臣となったと考える。

坂本龍馬

 次回は、薩摩藩に仕官する直前に近藤長次郎が小松帯刀に提出し、島津久光の閲覧に供した上書を取り上げてみたい。その内容を詳しく紹介し、そこで展開される征韓論やアジア征服などを視野に入れた、その広大な未来攘夷構想を紐解き、近藤の先見性に触れてみたい。