
(町田 明広:歴史学者)
五代友厚の留学生計画と開成所
元治元年(1864)5月ごろ、五代友厚は長崎においてグラバーとも相談しながら、密航留学生の派遣計画も盛り込んだ上申書を作成した。その中で、五代はどのように留学生を選抜しようとしていたのか、探ってみよう。
五代の計画では、藩校の造士館から留学生を選抜することになっていたが、実際には、同年6月に新たに設置された開成所の生徒から、多くの留学生が選ばれることになった。開成所とは、薩英戦争によって、海軍力の圧倒的な差を痛感したことを契機として、欧米列強に対抗できる軍事技術・諸科学および英学・蘭学の教育機関として設置されたのだ。
開成所では、薩摩藩の富国強兵策を推進するにあたり、根幹ともなる陸海軍事力の強化、それを駆使できる人材育成に重点が置かれた。そこでの教授科目として、海軍・陸軍の砲術、兵法、築城など軍事の専門科目を中心に、天文、地理、数学、測量、航海、器械、造船、物理、分析、医学などの諸科学、それに加え、英語・オランダ語などが開講された。
その教授陣容には、驚くべき人材が含まれていた。例えば、蘭学者の石河確太郎をはじめ、英学者の前島密やアメリカから帰国した中浜万次郎など、他藩の大家が多数招聘されているのだ。変わったところでは、海援隊士の沢村惣之丞も数学を教授している。なお、前島密はこの段階で、大久保利通の知遇を得ている。