石河確太郎と開成所の設置

石河確太郎

 石河確太郎について、簡単に触れておこう。大和国高市郡の出身であり、集成館事業を興した島津斉彬に見出され、その事業に参加した。しかも、斉彬の信任が篤く、その中核を担ったのが石河だったのだ。石河自身も、開成所でも教授を務めたが、元治元年10月に側役の大久保利通に上申書を提出している。

 その中で、石河は組織、カリキュラム、教官と学生の選抜基準などの改革案を示すとともに、具体的な氏名を挙げながら、生徒を留学生に推薦している。石河の後押しによって、開成所から多くの留学生を輩出したことは間違いないのだ。

 ところで、開成所の設置にかかわった藩要路は誰であったのだろうか。確かなことは分からないが、大久保利通が設置にかかわる、具体的な意見書を出していることから、中心にいたことは間違いない。

 当時、島津久光と藩政の中心にいた小松帯刀は京都にいたため、決裁くらいにしか関われなかったはずである。なお、大目付の町田久成は、学頭(総責任者)の職である開成所掛に就いており、大久保と一緒に全体を構想したとするのが妥当であろう。

 なお、開成所の生徒数は70名ほどで、造士館から選抜されたエリートであった。能力に応じて3段階に分けられ、まずは語学から講義が始まった。当時は蘭学の時代が続いており、英語の専修者は10名足らずであった。また、生徒には給与が出ており、このあたりはユニークである。これは、藩としての期待の大きさを物語っていよう。