知られざる留学生辞退者の存在

 留学生は15名で、開成所から多数が選ばれている。特定の家柄、年齢からではなく、幅広く選抜されている。そして、思想的にはあえて攘夷思想が強い上級家臣が含まれた。実は当初、このメンバーのほかに3名が候補となっていた。

 その内の1名、町田猛彦は出発直前に変死しており、一説には、自殺とも言われているが、病気のために渡航を断念したというのが真相らしい。もう2名は、上級家臣の島津縫之助と高橋要で、留学を恥辱とまで考えており、強硬に辞退を申し入れたのだ。

 しかも、島津久光が自ら説得したにもかかわらず、翻意せずに外されている。久光にたてつくとは、にわかに信じ難いが、狂信的なほどの即時攘夷の信奉者であったかも知れない。なお、この時、上級家臣である畠山義成も辞退していたが、久光の説得に応じて翻意している。こちらの対応こそ、普通のものであろう。

畠山義成

 督学である町田久成を除く上級家臣5人中、3人が辞退を申し入れ、実際に2名が外れている。ここからも、五代の門閥層の攘夷家を加える意義が分かるのだが、結果として実を結ばなかった。

 ちなみに、辞退した2名のその後の経歴は分からない。ここが、人生の大きな分岐点であったことだけは確かなようだ。薩摩スチューデントの多くは、帰国後、日本の近代化に大いに貢献した人材となったのだが、そのことについては、いずれ取り上げてみたい。