近藤長次郎の生い立ち

近藤長次郎邸跡碑

 天保9年(1838)3月7日、近藤は水通町(高知市上町)で生まれた。生家は「大里屋」(餅菓子商)であり、「饅頭屋長次郎」というのは、後世になって付けられた通称であるが、その由来はここにあるのだ。

 水通町は商人や職人が多数居住しており、近藤は経済感覚やビジネスのノウハウをこの地で学修した。近藤は幼年期から学問好きで、家業の手伝いをしながら読書に勤しみ、また、叔父の門田兼五郎に師事した。坂本龍馬の生家にも非常に近く、もしかしたら、幼少期から交流があったのかも知れない。

 安政2年(1855)、近藤は大里屋から近い築屋敷にあった河田小龍の塾に入門した。河田の本業は画家であり、海外事情に精通していた。ジョン万次郎の聞き取りから、『漂巽紀畧』を執筆したのは、この河田である。その後、近藤は神田村(高知市神田)の岩崎弥太郎に師事した。後に岩崎は、三菱財閥の創始者となったことは周知の事実である。

近藤の江戸行きと勝海舟との出会い

勝海舟

 安政6年(1859)頃、藩の重役である由比猪内に従って、近藤は江戸に遊学し、安積艮斎の塾に入門した。しかし、同年、父母がともに死去したため、急遽帰藩せざるを得なかった。学問の道をあきらめきれなかった近藤は、家督を妹に継がせて、翌万延元年(1860)に再び江戸に遊学し、洋学を手塚玄海、砲術を高島秋帆のもとで学修したのだ。

 文久2(1862)年、勝海舟の塾に入門した。恐らく、坂本龍馬も同年の10から12月頃に入門したと考えられる。もしかしたら、近藤の手引きがあったかも知れない。近藤は勝の下で、そのずば抜けた才能を開花させた。

 ところで、近藤の優秀さに関する情報は各地に広まっており、諸藩からスカウトしたいとの申し出が、勝の許に相次ぐ事態となった。極めて特殊な事態が起こったのだ。こうした事実を知った土佐藩は、近藤を放ってはおかなかった。

 土佐藩は、近藤に名字・帯刀(武士の特権)を許可し、藩士に昇格させた。近藤は、その飛び抜けた学問の才と勝門下である事実から、土佐藩からも認められ、晴れて士分に取り立てられた。近藤の面目躍如たるや、さすがである。

 文久3年(1863)1月、勝とともに上京し、6月下旬に神戸の地に新設された勝私塾に入門を果たした。元治元年(1864)5月、神戸海軍操練所が開設された。しかし、入所資格は関西在住の旗本・御家人の子弟および四国・九州・中国辺の諸家家来に限定されたため、近藤は「勝阿波守家来」で聴講するレベルに止まった。なお、龍馬が塾頭という通説は、この条件では当然のことながら、成立しない。

 同年6月5日、池田屋事件が勃発し、勝門下の望月亀弥太が討死し、そのことなどから勝に嫌疑がかかり、失脚してしまった。近藤を含む土佐藩士グループは、行き場を失い脱藩せざるを得なかった。勝は、薩摩藩に彼らの援助を要請し、薩摩藩も軍艦への乗組員の不足に難渋していたことも相まって、近藤らは薩摩藩に取り込まれることとなったのだ。