(町田 明広:歴史学者)

近藤長次郎による先見的な上書の提出

 慶応元年(1865)2月1日、近藤長次郎は鹿児島に向かい、薩摩藩士としてリスタートを切った。その近藤が、鹿児島に行く前年末に小松帯刀に建白し、小松から島津久光へ提出された上書(元治元年12月23日、『玉里島津家史料』3)を取り上げてみたい。本上書はかなりの長文であるが、非常に重要なので、その要点を詳しくまとめてみよう。

 現在の日本は、喧々囂々(けんけんごうごう)と騒々しく、内乱が東西に起こり、人心がきわめて不安定な状況である。加えて、外国人が猛烈な勢いで軍艦を日本に指し向けていると、近藤は危機感を露にする。

 そして、外国勢力は通商条約の不履行箇条を責め、幕府の対応によっては、たちまち戦争になりそうな勢いであると、近藤は現状を分析して、その実態を強く嘆じる。近藤は、日本が置かれた状況を客観的に見て、意見を開陳したのだ。

近藤上書に見る華夷帝国・日本

 そもそも、勢い盛んな神州(日本)は、四夷(東夷・西戎・南蛮・北狄)から朝貢使節を受け入れてきた。そして、武威を海外に轟かしながら、日々領土を拡げることは、建国以来の当たり前の方向性であると主張する。近藤は、日本を東アジアにおける華夷帝国であると断言しているのだ。

 その根拠として、神功皇后は自ら海軍を率いて三韓(新羅・百済・高句麗)を征服して、日本人のための都市を建設し、そこに入植して朝貢を監視した。もしそれを怠れば、たちまちにして派兵しこれを罰したと、『古事記』『日本書紀』に記載されている朝鮮支配の故事を述べる。

神功皇后

 そして、神州の国体は2,000有余年、1つの皇統が綿々と継続しており、富国強兵の国家である。そのため、周辺諸国から軽侮を受けることがなかったと強調する。