10月31日、首脳会談を前に、習近平国家主席(右)と握手を交わす高市首相。この時はその後に日中関係がこれほど悪化するとは想像していなかった=韓国・慶州(写真:共同通信社)
台湾有事をめぐる高市首相の国会答弁以来、日中関係は悪化の一途を辿り、出口が見えない。そもそも、中国は、1949年の建国以来、台湾問題にどう対処してきたのだろうか。
毛沢東と武力統一の試み
国民党の蒋介石が大陸から逃れて支配している台湾に対して、毛沢東は「台湾解放」をスローガンに統一を目指した。
毛沢東は台湾を武力統合する努力を続けた。1949年10月には厦門沖の金門島への上陸作戦を行ったが、国民党軍の抵抗で失敗した。その後も、同様な試みを企てたが、1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、中国も北朝鮮を支援して参戦した。
この朝鮮戦争の勃発で、米軍が台湾海峡の現状維持という姿勢を堅持することになった。
1953年7月に朝鮮戦争休戦協定が結ばれた後、1954年9月3日、人民解放軍が金門島を攻撃し、その後も攻撃が続いた。その結果、中国とアメリカの関係が悪化し、12月2日にはアメリカと台湾の間で米華相互防衛条約が締結された。そのため、毛沢東は、台湾の武力統一をしばし断念せざるをえない状況に追い込まれたのである。
実は、この攻撃は、原爆技術移転をソ連に求めるための賭けでもあった。10月には、フルシチョフが訪中し、多額の援助を約束する。
スターリン後継のフルシチョフは、軍事技術の技術移転に関しては、スターリンほどの猜疑心を持たず、毛沢東の希望の多くを実現させるという甘い点があった。核開発に関しても、原子炉建設までは、フルシチョフは渋々認めたのである。
1958年8月23日、人民解放軍は金門・馬祖を砲撃した。毛沢東は、米軍の金門・馬祖への補給を絶とうとしたのである。しかし、米軍は台湾を支援し、中国の作戦は失敗した。
また、フルシチョフは毛沢東に対し支援を約束しなかった。それは、フルシチョフが米ソ共存路線を進めようとしていたからである。
その後も中国は、1979年1月1日の米中国交樹立まで、定期的に金門・馬祖を攻撃したが、儀式的な様相を呈した。
要するに、毛沢東時代には、ソ連の後ろ盾が無ければ、自力でアメリカと対決することはできず、台湾の武力統一は不可能であった。

