鄧小平と米中国交樹立

 対米関係でも、国交正常化交渉が進められたが、台湾問題について、鄧小平は、最初は、台湾との国交断絶、米華相互防衛条約の廃棄、米軍施設の撤収を要求し、台湾との関係を民間レベルに限定する(日本方式)を要求した。

 カーター政権は、すぐにはこの要求を受け入れなかった。そして、1978年9月にはベトナムとの間で国交正常化の“動き”を本格化させるが、反ソ連、反ベトナムの鄧小平は、そのアメリカの動きに危機感を感じた。そして、米中国交樹立を進めるために、台湾の現状維持や平和的解決、台湾への武器輸出の継続というアメリカの要求を入れ、アメリカも日本方式を受け入れた。

 こうして、1979年1月1日に米中国交樹立が成ったのである。

 同年4月には、アメリカで、親台湾の保守強硬派が巻き返しを図って、「台湾関係法(Taiwan Relations Act)」を成立させ、アメリカが台湾の援助を続けることが定められた。

 以上のような鄧小平の外交転換は、ソ連やベトナムへの対抗という狙いが背景にあったが、毛沢東路線を変更し、経済再建のために改革開放を目指すための方策であった。

 日本やアメリカの繁栄をみた鄧小平は、中国がいかに遅れているかを痛感し、何としても、日米に追いつくことを目標にせざるをえなかった。それは、弱小国の悲哀であるが、その事実の前には、台湾問題での妥協もやむをえなかったのである。

 米中国交が樹立した日、鄧小平は、台湾問題を武力ではなく平和的な話し合いで解決すること、「三通(通航、通商、通郵)」によって統一を実現することを方針とする旨の発言を行った。

 さらに、1984年には、「一国二制度」方式での統一を提案している。

 1996年3月23日に台湾で総統の直接選挙が行われたが、台湾の指導者を台湾の住民が決定するということを、台湾独立に反対する中国が反発した。江沢民政権である。

 そして、3月8日から3月15日まで、中国人民解放軍が台湾近海でミサイル演習を行った。これに対して、アメリカは二個の空母戦闘群を派遣して牽制した。

1996年3月16日、台湾の東約300キロの海上で米海軍輸送機から撮影した、訓練中の米空母インディペンデンス(写真:共同通信社)

 このときの屈辱の体験が、その後の中国の軍拡、とりわけ空母を含む海軍の拡張につながっている。