鄧小平と日中平和友好条約

 華国鋒政権の下で、1977年に権力に復帰した鄧小平もまた、台湾の統一に努めた。

 日本との日中平和友好条約交渉において、「反覇権条項」が障害になった。1972年9月29日の日中共同声明の7項で「日中両国間の国交正常化は第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは集団による試みにも反対する」と記されているが、これを反覇権条項と呼ぶ。

 中国は、対立するソ連の覇権拡大に対抗するために、この条項を条約に入れることを求めたが、ソ連は、日中平和友好条約にこの条項を盛り込むことを「反ソ行動」だとして反対した。北方領土問題を抱える日本はソ連との関係悪化を懸念して、対応に悩んだ。

 そこで、日本は、「この条約は第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」という「第三国条項」を挿入することを提案した。

 日本やアメリカとの関係強化に舵を切った鄧小平は、この日本の提案を受け入れて、遂に1978年8月には日中平和友好条約が締結されたのである。6年がかりの交渉であった。

 条約締結を祝して10月に鄧小平は来日し、新幹線、自動車などの先端産業を視察した。