(町田 明広:歴史学者)
幕末史における堀田正睦の重要性
嘉永6年(1853)6月、ペリー来航によって15年にわたる幕末の動乱の幕が切って落とされた。翌嘉永7年(1854)3月、再来日したペリーとの間で日米和親条約が締結されたが、通商は回避された。この条約は、アメリカに食料や燃料を施して穏便に追い払う、いわゆる撫恤政策の枠内に留まり、鎖国政策をなんとか維持したのだ。
しかし、鎖国の維持は難しく、開国は待ったなしと悟った老中阿部正弘は、積極的開国論に転じて、安政の改革を断行した。その中心的役割を担ったのが、海防掛の岩瀬忠震であった。その阿部老中からバトンを引き継ぎ、老中首座として日本の開国に道筋を付けたのが佐倉藩主・堀田正睦(まさよし)であった。堀田は阿部の政策を踏襲しながら、通商条約の締結に大きく舵を切り、その実現に奔走したのだ。
今回は5回にわたって堀田正睦にフォーカスし、その生涯を追いながら、堀田の決断がいかに日本の開国にとって必須であったのかを明らかにしたい。そして、堀田の幕末維新史上の重要性に光を当てることによって、真の開国の立役者が堀田であることを紐解きながら、歴史の実相に迫りたい。