堀田の幕政への参画

 文政12年(1829)4月12日、堀田正睦は奏者番に、さらに天保5年(1834)8月8日には寺社奉行兼務に抜擢されたが、まだ弱冠25歳の若さであった。天保8年(1837)5月16日、大坂城代(赴任せず)に就任し、従四位下に推叙された。順風満帆な出世街道を歩んでいたのだ。

 同年7月8日、江戸城西の丸老中に推挙され、11代将軍徳川家斉の没後、天保12年(1841)3月23日には、本丸老中にまで上り詰め、老中首座の水野忠邦の天保の改革に参画した。しかし、堀田は改革に対しては批判的となり、渡辺弥一兵衛と図り、天保14年(1843)4月、12代将軍徳川家慶の日光参拝直後に病気(持病の脚気悪化)と称して、辞表を提出したのだ。

水野忠邦

 閏9月8日、辞任は許可されたものの、一方で溜間詰として辞任後も一定の発言力を有したが、これは将軍家慶の配慮かも知れない。なお、同月11日、寺社奉行阿部正弘が堀田の後任老中に抜擢されたが、13日には水野が罷免された。ここに、天保の改革も潰えたのだ。