堀田の生い立ちと藩主就任

 文化7年(1810)8月1日、堀田正睦は佐倉藩の7代藩主正時と側室源田芳(よし)の間に、江戸藩邸で生まれた。翌8年(1811)4月10日、正時が病死したため、正愛(まさちか)が8代藩主に就任した。実は、正時は6代藩主正順の弟であり、正順の養子正愛が幼児のため封襲した経緯があった。

 正愛は正睦を世子(次期藩主)とし、藩主の座を正時の血統に戻す意向を示した。結果として、正愛には継嗣がなく、文政7年(1824)、正愛の重病時に正睦を世子に決定したのだ。

 しかし、藩政を握る老臣金井右膳は、堀田一族の長老で若年寄・堀田正敦(近江国堅田藩主)の子である正脩(まさなが)の藩主擁立を画策した。それに対し、物頭渡辺弥一兵衛ら下級武士が血統維持を訴えて、金井に反対を表明した。そもそも、渡辺らは堀田を少年期から大器として見込んでおり、金井の策略を阻止することに成功した。

堀田正敦

 文政8年(1825)、堀田は9代藩主に就任し、それまで正睦擁立に腐心してくれた渡辺を側用人に抜擢したのだ。そして、天保3年(1832)には、渡辺は老臣に昇進し、藩政改革(財政再建、文武奨励等)の責任者となった。