藩政改革とその成果

 老中辞任後の堀田正睦は、佐倉藩に留まり、様々な藩政改革にまい進した。以下、その内容を詳しく見ていこう。

【文武奨励策】

 天保5年(1834)4月、城中三ノ丸に西塾を、海隣寺曲輪に東塾を開設した。また、猪鼻分校(南庠、千葉市)、柏倉分校(北庠、山形市)を含め、4ヶ所で儒学を教授した。

 天保7年(1836)10月、これらを宮小路に移転・拡充して本格的な学校を建設し、成徳書院と改称して藩校とした。講堂、塾舎、聖廟、書庫、寄宿房等が建ち並ぶ大規模な普請であり、医学設置は佐倉藩の新しい伝統のスタートとなった。

 天保10年(1839)、成徳書院の中に演武場を設置し、本格的に武術奨励を鼓舞した。兵学、弓術、馬術、刀術、槍術、砲術、柔術の全てに師範を配置して充実を図った。文武両道を目指し、一方への偏向を戒告した。

【兵制改革(西洋兵法の採用)】

 天保12年(1841)、藩士斎藤碩五郎らに高島秋帆から西洋銃砲を修得させた。嘉永4年(1851)には、斎藤らは松代藩に派遣され佐久間象山に西洋軍事を学び、嘉永6年7月に佐倉城中において、西洋砲術の教場を設け武芸師範となり、藩士27人を選抜して教授した。

 また、蘭学に精通する木村軍太郎を近習に抜擢し、西洋兵書の研究に従事させた。嘉永6年12月、旧式の火縄銃を撤廃し、「西洋の歩騎砲三兵」(上士:騎兵隊、中士・諸士子弟:大砲隊、足軽:小銃隊)を採用して、西洋兵法の採用による兵制改革を実行した。

【西洋医学奨励】

 天保9年(1838)中に、侍医鏑木仙安に箕作阮甫から西洋医学を学ばせ、同12年(1841)には、長崎に派遣し研究に従事させた。翌同13年(1842)、仙安は帰藩して医学局の都講(助手)に就任し、西洋医法を教授し始めた。佐倉藩における、西洋医学の始まりである。

 堀田は藩主就任後、戸塚静海を招いて侍医に準じ俸給を付与した。天保14年(1843)8月、佐藤泰然を事実上招聘し、当初は客分待遇で開業医をさせ、病院兼蘭医学塾(佐倉順天堂)を創設させた。さらに、嘉永6年に藩医として佐藤を仕官させている。

佐藤泰然

 佐藤は、多数の門弟を養成しており、ヘルニア手術、乳癌切除術、日本で最初の卵巣嚢腫摘出などの手術を無麻酔下に行うなど、外科手術に辣腕を振るった。また、オランダ医書を翻訳しており、『接骨備要』『謨私篤 (モスト)牛痘篇』『痘科集成』を著した。ちなみに、周知の通り、佐倉順天堂は順天堂医院、順天堂大学へと発展して現在に至る。

 このように、堀田は多岐にわたって様々な改革を実行し、しかも成功を収めており、まさに佐倉藩の名君であったのだ。このような堀田を、厳しい舵取りを迫られていた幕府が放っておくことはあり得なかった。

 次回は、老中再任後の堀田正睦の動向とその対外政略について、ハリスの江戸参府問題と堀田の大英断を中心に、詳しく説明していこう。