――そもそも地震についての考え方が、地震学者と耐震工学の研究者で違っていたそうですね。

入倉 断層がずれ動いて、大きな揺れを起こすという今では当たり前の見方が、工学の人にはなかなか受け入れられてきませんでした。工学の分野では、地震は一つの点から発生すると考えて、その点からの距離で揺れを想定する方法(距離減衰式)がずっと主流でした。

 新潟地震(1964年、M7.5)で研究が進んで、地震学者が東大の地震研究所の会合で成果を発表した時、「ようやくこれで地震の正体が断層だということがわかるようになりましたね」と話したら、当時の耐震工学の第一人者からは「いや、地震は断層と関係ないでしょう」と返答されたという逸話があります。

 工学の研究者たちは揺れの記録を集めていました*7が、日本でどのくらい大きな揺れが生じるのか、それは震央(断層の破壊が始まった点《震源》の真上の地表の点)からの距離や地盤とどう関係しているか知り、耐震設計に反映するために集めていたのです。活断層からどんな揺れが生じるのか事前に予測する、その理論を研究するために観測しようという視点は、ほとんどありませんでした。

*7 防災科学技術研究所の発行する「Strong-Motion Earthquake Records in Japan」など

政府も地震予知への偏重を反省、防災に役立つ震度予測にも注力するように

――揺れを予測する研究は、どのように進められたのでしょうか。

入倉 私は理学部物理学科を卒業して、大学院では地震の研究をしたいと思い、1963年に京大大学院の地球物理学科に入学し、防災研究所にある研究室に配属されました。地震学を防災に生かすためには、活断層からどんな揺れが生じるのかを知ることが不可欠だと考えました。しかし研究するにも、自分で自由に使える記録がほとんどない。まず記録を取ることから始めなければいけませんでした。

 1978年に東海地震の対策を進めようという法律ができて、地震研究の予算が増えました。その科研費プロジェクトに参加させてもらって自前の強震計を静岡市や御前崎などに置くことができました。そのころの強震計はメンテナンスが大変で、毎週のように京都から新幹線で静岡に通いました。3年間のプロジェクト期間中に欲しい記録が取れるかどうか、少々無謀な計画だったのですが、最後の年に、一つだけ大きめの地震(1980年伊豆半島東方沖地震、M6.7)が起きて、研究の突破口が開けました。

 予測される震源断層の近くで起きている小さな地震の揺れのデータから、大地震の揺れを計算する経験的グリーン関数法と呼ばれる方法です。記録集め、理論や計算まで自分で手がけ、一つの論文を仕上げるのにとても時間がかかりました。この研究で博士号も得ましたが、43歳の時です。大学院で強震動の研究を始めてから20年がかりでした。

 その理論がどんどん進んでいったのが1980年代から1990年代にかけてです。しかし、なかなか信用してもらえなかった。これで揺れが説明できる、防災に役立つと認められるようになったのは、阪神・淡路大震災以降です。

 研究が地震予知に傾きすぎていたことを反省して、阪神・淡路大震災以降は、国も強震観測や強い揺れの予測に力を入れるようになりました。活断層の調査も進みましたから、それを生かして、それぞれの活断層が起こす揺れを計算した強震動予測地図*8も公表されています。

*8 政府 地震調査研究推進本部