1990年12月、最後のレース「第35回有馬記念」を優勝で飾ったオグリキャップ 写真=共同通信社

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

昭和歌謡研究家・堀井六郎氏はスポーツライターとしての顔もあります。とくに競馬は1970年から今日まで、名馬の名勝負を見つめ続けてきました。堀井氏が語る名馬伝説の連載です。

公営競馬の英雄が競馬人気をもたらした

 日本競馬には国が主催する中央競馬(JRA)と都道府県の地方自治体が主催する公営の地方競馬という2つの舞台があります。

 プロ野球に例えると、中央競馬は東京ドームなどで多くの観客に囲まれて開催される一軍の公式戦、地方競馬は野球の二軍戦といった感じでしょうか。中央と公営、それぞれ別の楽しさがあるのも競馬の魅力の一つです。

 また、同じ公営競馬でも、かつてハイセイコーが所属していた大井競馬場とオグリキャップの地元だった岐阜・笠松競馬場では雰囲気がかなり異なります。

 オグリキャップ全盛時、名古屋に出張で出かけた際、少し足を延ばして笠松競馬場を訪ねたことがありました。当日は競馬を開催していなかったので閑散としていて、のどかな雰囲気の中、内馬場では職員たちでしょうか、バレーボールに興じていました。

 ハイセイコーとオグリキャップは年齢の差が15年ほどありますが、あらためて血統的に検証してみると、血筋ではハイセイコーのほうに軍配が上がるでしょう。

 ハイセイコーの父・チャイナロックは、当時すでに中央競馬でタケシバオーやアカネテンリュウといったスターホースを数多く輩出、時代を代表する種牡馬となっていました。マスコミ報道の「野武士」のイメージとは裏腹に、実はハイセイコーは公営競馬の中でかなりのエリートさんだったわけです。母・ハイユウも大井中心に公営競馬で16勝の勝鞍があるほどの実力馬でした。