第13回日本歌手協会歌謡祭で高英男(左)と談笑する淡谷のり子(1991年当時) 写真/共同通信社

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

◉朝ドラ『ブギウギ』茨田りつ子のモデル・淡谷のり子の人生美学(1)
◉朝ドラ『ブギウギ』茨田りつ子のモデル・淡谷のり子の人生美学(2)

モンペをはいては歌えない

 少女時代に作家に憧れていた淡谷は、元衆議院議員であり歌人としての顔を持っていた叔父・淡谷悠蔵と深い信頼関係で結ばれていました。お互い強情っぱり以上の「からきず(青森の方言)」な性格にもかかわらず、馬が合ったのかもしれません。

 淡谷が色紙に書く「ひとすじの道生きて来てあかあかと命の涯に燃ゆる夕やけ」は、叔父・悠蔵の作だと言われています。

 人に迎合しない淡谷の「からきず性格」は、戦時中でも変わらず、軍歌を歌うことを拒否しただけではなく、「モンペをはいて『別れのブルース』を歌えると思いますか」とモンペ着用も拒否、「これは自分にとっての戦闘服だから」と言って、それまでのドレス衣装のまま歌い続けました。

 派手な化粧や付けまつげをやめろと言われた際には、毅然と「私の顔は化粧しなきゃ見られないわよ」と反論、菊地凛子が演じる、まさに凛とした演技からは、今は亡き淡谷のそうした心意気が伝わってくるようでした。

 戦時中を通じ軍隊慰問の際、担当官に口出しさせないため、淡谷は無償で奉仕していたそうです。ゴージャスな衣装を身につけ、「10年に一人の美声」で聴く人に届ける──これは生涯を通じて、淡谷の一貫した美学でした。

「お前はオカチメンコだから嫁には行けないかもしれん」などと祖父に言われてしまった少女時代、それはまた美しさへのあこがれとなって昇華されていきます。

 着飾って美しい声で流れるような旋律を歌うこと、その歌を観客に聴かせることこそ自分の使命だと自覚していたのでしょう。

 自らも楽しみ、目と耳で人を喜ばせる。ヌードモデルまで経験しながら、おしゃれのためには浪費もいとわないという信念は、生涯に8億円もの出費に及んだそうです。