1973年5月6日、NHK杯、ハイセイコーが無傷の10連勝 写真/山田真市/アフロ

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

昭和歌謡研究家・堀井六郎氏はスポーツライターとしての顔もあります。とくに競馬は1970年から今日まで、名馬の名勝負を見つめ続けてきました。堀井氏が語る名馬伝説の連載です。

ハイセイコーとオグリキャップが築いた「競馬ブーム」二つの時代   

 私が競馬に親しむようになってからすでに半世紀以上が経過していますが、この期間にマスコミが「競馬ブーム」と呼んだ時代を2度経験しています。

 ハイセイコーとオグリキャップ。この2頭の名前は、競馬について関心がなくても還暦以上の方なら記憶の片隅にあるかもしれません。ハイセイコーがマスコミをにぎわせたのが昭和48年(1973)、オグリキャップは平成元年(1989)のことでした。

 この2頭が登場した後、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーブル、コントレイルなど実力・人気を兼ね備えた三冠馬や名馬たちが出現しましたが、老若男女を巻き込んだハイセイコーとオグリキャップのあの人気には遠く及ばない、というのが私の実感です。

 それは、ハイセイコーもオグリキャップも無敵ではなかったけれど、競馬の世界を踏み越えて、時代を代表するアイドルとしての存在になってしまったからでした。

 ハイセイコーが漫画週刊誌『少年マガジン』の表紙に登場したのは有名なエピソードですし、オグリキャップに至ってはオグリ人形と称する小型のぬいぐるみ人形まで登場(実はオグリキャップの馬主が販売)、競馬とは無縁の私の母親でさえ、デパートで売っていたからと、いくつも購入したほどでした。

別格だった公営競馬「大井の怪物」

 オグリキャップについては次回紹介することにして、まずはハイセイコーです。私の知人に公営・大井競馬場の調教師がいて、ハイセイコーが中央競馬に移籍する前年、大井競馬場ラストランとなった昭和47年(1972)11月の「青雲賞」には厩舎所属馬が出走、ハイセイコーと一緒に走り3着となっています。

 ハイセイコーとの着差は10馬身近くもあり、数十年後にハイセイコーのことを尋ねた際に「あれは別格」と、その存在を鮮明に記憶している様子がうかがえました。

 このときの馬券は、単勝(勝ち馬を当てる馬券)・複勝(3着以内に入れば的中とされる馬券)とも100円の元返しという圧倒的な人気ぶり。当時の競馬新聞には「ハイセイコーまたも圧勝」「明春、中央に挑戦か」「ユウシオ(中央No.1)より強い!」の見出しが躍っています。

 結局、大井競馬で6戦全勝、2着馬につけた着差が大差(10馬身以上)2回、8馬身、7馬身3回という図抜けたものでした。

 中央競馬と地方競馬の格差を熟知している私の友人が2着馬に7馬身差をつけた前述の「青雲賞」を実際に見ていますが、中央競馬での活躍を確信するほどの豪快な勝ちっぷりだったそうです。